ハマダ "三位一体ー父・子・聖霊をめぐ..." 2025年11月2日

三位一体ー父・子・聖霊をめぐるキリスト教の謎
“実際、他のものにおいて示されるように、もし個体(ウーシアー)や基体(ヒュポケイメノン)という点で〈子〉が〈父〉と異なるならば、祈らねばならないのは、〈子〉にであって〈父〉にではないのか、あるいは両方にであるのか、それとも〈父〉だけにであるのか。?” “〈父〉と〈子〉が(世界を)創造していた間、〈聖霊〉は何をしていたのか?” 父なる神・子なるキリスト・聖霊の三者の関係をどのように理解するべきか、当時の神学者たちは、プラトン的哲学言語、概念を援用しながらこの三位一体教義を確立させていく。 < 認識されるものにとっても、認識されるということが善によって実現するだけでなく、 〔それらが「あること」やその「存在 デュナミス 〔真にあること〕」も、善によってそれらに付加されると言わねばならない。ただし、善はそれ自身が「存在ウーシアー〔真にあること〕」なのではなく、 位においても力 デュナミス においても存在ウーシアーの彼方 (epekeina tēs ousiās) に超越している。> プラトン「国家」 つまり、プラトン哲学の中心、「普遍(イデア)」と「個物(イデアへの参与者)」の 関係は神の本質(ousia)は一つであり、三つの位格(hypostasis)がそれを共有するという構造を説明し、また、一者(the One) → 理性(Nous)→ 魂(Psyche)→ 物質世界 という存在の階層構造は父から子へ、そして聖霊への流れパラフレーズされる また、プラトン以来の「ロゴス」概念(宇宙を秩序づける理性)は、キリスト教神学に」おいてはロゴス=キリストと解釈され、神の「言葉(理性)」としての子の存在を哲学的に説明する手段となった。 <ヨハネ福音書「はじめに言があった(Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος)」> さらにキリスト教に回心する以前に新プラトン主義哲学を深く学んだアウグスティヌス(354–430)は人間の内面に三位一体構造を見出すというあらたな議論を説き起こす。 それは、新プラトン主義的、一者(The One) 理知(Nous) → 魂(Psyche)を 父(創造の源)、子(神の言葉)、聖霊(愛・結合の原理)の三位一体へと、 そして人間精神の三機能(記憶・知性・意志)へと、新プラトン主義的な「内面への上昇」をキリスト教神学的に昇華させていくというアプローチであったが、 ”実際、人間が三位一体の神の像に従って創られている以上、人間の内にも神の三位一体的 な働きの痕跡があるはずだ。しかし、アウグスティヌスは、我々の精神内の似像からその原 型である神の三位一体性を、いわば外側から俯瞰するような類比的思考によって探り当てよ うとしているわけではないし、そもそもそのようなことが可能だとは微塵も考えていない。 彼の方法は、むしろもっと徹底して自己内在的であることによって初めて可能となる 自己無化の遂行であり、自己の内奥への超越とさえ言い得る記憶論、メモリアだった。” 中世哲学者、”山田晶の言うように、「人間の精神はそのもっとも奥深いところにおいて、 超越者である神にむかって開かれている」のだ。こうした「自己の内の奥底へと超越する」 という一見すると自己矛盾しているようにも見えかねない結論を真に理解するためにこそ、 アウグスティヌスは人間の精神の内に見出される神の愛の三位一体構造の痕跡を、いわば補助線として利用していく。” 正式な公会議は第1回(325年) 第一ニカイア公会議から、第7回(787年) 第二ニカイア公会議 とされているが、時代とともに神学論争的熱気は失われ、政争の場となっていく。 ”その後、神からの真理の光であるキリストへの信仰に代わって、人間における自然の光すなわち理性に基づく合理主義的なデカルト哲学が先陣を切り、カントによる啓蒙思想が確立 した人間中心的な近代思想の流れの中で、三位一体論のもつ意義は大きく減衰していくこと となる。” それでも、”政治的諸概念を神学の世俗化とみなすカール・シュ ミットのいわゆる「政治神学」に対し、神の一者支配という政治神学的パラダイム自体の挫折を宣告したエリク・ベテルソン、さらに今世紀に入り両者の論争をオイコノミアの観点か ら解釈し直したジョルジョ・アガンベン”など現在も神学概念の有効性はなくなってはいない。
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