Ryu "風俗小説論 (講談社文芸文庫..." 2025年11月3日

Ryu
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@dododokado
2025年11月3日
風俗小説論 (講談社文芸文庫)
日本における近代リアリズムの系譜が「蒲団」以降いかに感性的で自我中心な方向に逢着し、(フランスと比べて)いびつな私小説の伝統を形作っていったかを説く、きわめて平明だが単純な評論で、やはり何度も立ち返るべき文献。花袋を悪者にして私小説の社会性の欠如を指摘するあまり、性的な描写にあった検閲への対抗的意義などを見落としてしまっている面もあるなど、単純化しすぎているきらいも挙げはじめればきりがないかもしれない。だいぶ前に読んで友だちに譲ってしまったからひさしぶりに読みなおしたけど今回、平野謙に依拠するところが意外に多いことがちょっと気になった。『芸術と実生活』『島崎藤村』も読みたい。  我国の自然派の代表的作品が、多くは作家の私生活のそのままの再現であるのは、いまさら云うまでもないことですが、それらの小説を読んで僕等が奇異に感ずるのは、その私生活の風景のなかでも、作者自身と覚ぼしい人物がその前景に立ちふさがって、他の登場人物はすべてこの主人公の観点から描かれて、彼を主軸とする価値の秩序にしたがって排列され、いわば作者の自画像を際立たす背景の役割をしか果していないことです。そして更に驚くべきは、この極端にロマンチックな、作者の自我中心の構成が、本来はもっと客観的な一般性を持つ筈の「自然」という概念を支柱として行われたことです。  すなわち作者が「自然」にしたがって生きる以上、彼の「ありのままの姿」を描くほど「他の共鳴」を得るに有力な手段はなく、同時に彼が「法則に近いもの」に達する努力を周囲の誰よりも真剣に払っているからには、彼の眼に映るままに他人を描くことはとりもなおさず彼等から「『自然」を捜しだし、掘りだす」所以だというわけです。(100-1)  西欧自然主義のリアリズムは、小説を実生活から離れた仮構の世界とする明瞭な意識から出発して、この仮構の世界に「事実」または「事実らしさ」(すなわち「蓋然的な一般性」)をつくりあげるための技術であり、それを根本において支えるものは、作者の人生に対する「思想と判断力」であったのです。「詩は幾何学と同じように正確なものだ」というフローベールの言葉は、その点から見て意味深いのです。  フローベールもゾラも「ありもしないこと」を書いた点では、全く同じなので、ボヴァリー夫人は、方法に帰納と演繹の差はあっても、実在の女性たちに対しては、あたかも幾何学の図形が自然界の事物に対すると同様に、抽象的なつくりものであり、その一般的な真実性は、ただ作者の想像力の「正確」さに負うているのです。  ところが「作者の生活すなわち自然」という概念から、小説の仮構性そのものを否定した我国の自然派作家に、「写実」の背面にあるこのような思想的力技が無視されたのは当然で、リアリズムは彼等にとってただ「あるものをあるがままに描く」外面的技術と取られたのです。(105) 「自己の経験し、観察したる自然」という私小説家の信念は、結果において、「自己の経験し、観察したる社会」の描写に限られ、それが「社会の全体」とますますかけ離れたものになって行ったのです。これが私小説理論の必然の帰結であった点に、その近代小説理論としての欠陥が露呈されています。  これは別の面から云えば、我国の自然派作家は、その「内面の自然」を充分その作品のなかに客観化できなかったということになります。自己の生活の内面から、より純粋な、したがってより普遍的で「法則」や「自然のリズム」に近い観念を抽出して、これを作品のなかに人間典型として生かす作業は「破戒」以後、我国の自然派の誰の手でも行われなかったので、「自然」の概念はただその制作の前提として用いられ、いわばそれを外部から支配していたにすぎないのです。「自然」の観念を、概念とはっきり意識して、これを作品の内部でその概念を頒たぬ社会と正面から対決させることをせず、作品自体をその概念で包んでしまったところに、その前近代的な弱点があったのです。(110)
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