石坂わたる "万葉集の〈われ〉" 2025年11月8日

万葉集の〈われ〉
「共感と言ってもいいが、もうすこしふみこんだ読みを考えた方がよさそうである。作者と読者はいわば共犯関係をむすぶのだ。そこでカギを握るのが多分<われ>の問題なのである。 啄木という作者<われ>に読者は自分を代入する。…… 一人称でありつつ、一方で『作者未詳』『詠み人知らず』でありうるのが短歌の本質なのである。融通無碍な<われ>である。開かれた<われ>である。おそらくこれは、日本人の<われ>観の機影をなすものであり、長い時代をかけて醸成してきた日本文化の特質をなすものなのだろう。……歌が個人的なものではなく、社会に共用されていた時代の名残である。……作者がだれなのかは問題ではない。歌は共有・共用のもの。作中の<われ>は発声するその人の意味であった。……作者よりもうたう人、発声する人が主役なのである。カラオケと同じで、作者は問題にされない。」 「7世紀から8世紀にかけて……その背景には中央集権国家の成立があり、都市社会の出現があった。従来の村落共同体と個人との関係とは異なった個人と社会の関係がうまれつつあった。我を知る人が誰もいない都市社会を生きる。全く知る者がいない遠い国へ国司として赴任する。…そこではだれも<われ>を知らない。<われ>のアイデンティティは、役職とか立場だけである。 「一方、近代もまた<われ>が意識化された時代だった。……藩のため家のために生きる<われ>ではない、<われ>は<われ>自身のために生きるのだ。大正時代早期になると私小説が興隆する。」 「私たち現代人は、行き過ぎた<われ>へのこだわりにとらえられているようだ。自我や個性にとらわれ、こだわって、不自由になっている。万葉集の<われ>を書きつづけつつ、いつもそのことを思っていた。
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