
ばるーん
@ballo____on
2025年11月21日
ほんのこども
町屋良平
読んでる
あべくんの文体を奪っていたことも忘れて物語してしまう小説家の私と同級生で親が殺し殺され自分も恋人も殺すあべくん。
スランプ中の私はあべくんの書いた散文を頼りにかれの人生を書き、それに反射する「私」を探そうとする。
養護施設から暴力団へと場を移していくあべくんの熱中したナチス関連の本を私も読んでいき、物語(のための「私」)ができないあべくんの異質な風景描写(のための)宛先がそれらの本に書かれた風景にあるのではないかと当てをつけて、5章では、ゾンダーコマンドとして同胞を殺しやがて自分も殺される運命にある名前のない「かれ」の認識(のなさや錯綜)を書いていく。私とあべくんの二者の「かれ」「私」の交換に、もう一人が入り込んでき交換は渦巻いてく。その外部には常に「われわれ」がいるような感じ。
この辺りの(私の殺し/殺され)死の書き方は証言本や映画などフィクションの否応ない影響を、労働の詳細と記憶や認識の切断(続かなさ)が押し返して拮抗し、やっと成り立っているような綱渡り。それゆえスケッチを見られた時の、いわゆるエンターテイメントの(映画などでBGMが一瞬消えるような)切迫感がまったく引かれている。が、「記憶が身体を肯定してようやく昨日がある。」このような箇所に異常なほど(小説としての)リアリティを感じる。
小説全体で、とりわけこの章で、フィクションマイナスという町屋良平が明かしてくれた(われわれが明かさせた)方法論を少なからずわかると、デビュー作『青が破れる』それ以降の読み方もしぜん変わるし、(私自身『青が破れる』の何がすごいのか全然わからなかった。ずっとズラされ続けてる、みたいな小さい感想しかなく…)それこそ批評の営為なんだろうけど、もう自分でやるしかない…という問題意識をそのまま小説に落とし込んだのが『ほんのこども』なんだろうか。
「フィクション化された経験を発見するその手つきだけが私だよなあ」という認識が、(実際の町屋良平への適用が許されるならば)デビューからずっとあったのか、今現在から振り返って再言語化したものなのかな。
「恥」と「ズラし」については思うのは、恥でズラすのか、ズラしてしまうのが恥なのか、前者から後者への移行(あるいは行き来の連続?)が気になってきた。


