
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年11月26日

読み終わった
今日、盲目的という言葉は一般的に避けられている。目が見えないということを分別のなさや判断力のなさの比喩にする表現は、目が見えないということに対する旧弊な偏見を助長するからだ。視覚的能力は知的能力と関係がない。
この表現はしばしばごく普通の会話のなかに忍び込む。それが文字になったとき、私たち校正者はそれをあるていど機械的に検出し、指摘する。指摘すれば多くの場合、それは直ることになる(直らないこともある)。そうして直ることになるにもかかわらず、その表現が何度も現れるのは、光と真理、見えることと正しいこと、闇と愚かさ、見えないこととわからないことが結びつけられてきた長い比喩の歴史があるからだ。その比喩の歴史の外に出るのはむずかしい。でも、そこには外があるのだ、と知ることはできる。光が真理と絡み合う経緯をたどっていくことで、光が真理と絡み合わなかったかもしれない歴史に、ここにない闇に、もうひとつの夜に耳を澄ますことができる。
比喩は、ある事柄を別の事柄になぞらえるものだ。だから比喩にはかならず、喩えられたものからはみ出てしまう余剰の部分がある。その余剰は時にひとり歩きし、もとの事柄からずれ、あるいは事柄の解釈自体を拡張していく。洞窟の比喩の変遷や、キリスト教とギリシャ哲学が結びつくなかでの光のイメージの分裂、真理を「もたらす」媒介としての光と、真理それ自体「である」真理としての光の微妙な、でも決定的なずれなど、同じ言葉を使って違う事柄が語られている、その差異に注目して描き出していくブルーメンベルクの手法は面白い。旧約/新約聖書での聴覚優位の立場(見ることが聞くことに凌駕される)と、ギリシャ哲学における視覚優位の立場(聞くことは誤りの原因となり可視性が正しさの根拠となる)が接続されていくプロセス(というほど筋道を追っては語られないのだけど)も興味深かった。聖書の神は言葉をかける。でもその姿は見えない。にもかかわらず、光はきわめて重要な神に関わるモチーフとして、その後のキリスト教についてまわることになる。そしてまた一方で、闇のなかで出会う神、闇であるところの神、否定神学の神というのも、それはそれである種の信仰の徹底された態度として、神秘主義者たちのなかに現れることになる。このあいだ読んだ古井由吉の『神秘の人びと』は、ちょうどそんな神秘主義者たちの、絶対性を強調するあまりむしろ闇を語ることになるさまを描いていた。でも光/闇の対立というコンフリクトの物語が、そもそもキリスト教の外からもたらされたものであり、それが歴史のなかでキリスト教に食い込んできたものだとするなら、あえて闇を語るような否定神学っぽい振る舞いも、また別の見方ができるような気がしてくる。
マーティン・ジェイの『うつむく眼』という本があって、20世紀フランス思想にあらわれた「反・視覚優位」のムーブメントについて書いている。けっこう長いこと気になっているけれど、まだ読めていない。いい機会だから開いてみるのもいいかもしれない。まず、7000円という価格にちょっと尻込みするのだけど……。
