
一年とぼける
@firstareethe
1900年1月1日
ガルシア・マルケス論
マリオ・バルガス・ジョサ
かつて読んだ
感想
ここ数年で書店で見かけた時、一番びっくりした本かも知れない。現代日本でまさか新翻訳・再刊行されるとは思ってもいなかった。ラテンアメリカ文学好きなら必読書の一つなので、見るからに分厚くてドープな研究・批評書だがチャレンジした。ガルシア・マルケス作品へのリョサの分析や批評の精度や質どうこうは今さら言及するまでもなく評価は定まっているかな、と思うのでそれよりもリョサの作家論の観点から自分なりにまとめたい。
・作品至上主義
"作家がテーマを選ぶのではなく、テーマが作家を選ぶ。"
この本の中で示されている(そしておそらく終生大きくは変わらなかったであろう)リョサの作家としての立場は、「作品至上主義」と呼べる。一般に呼ばれる「作家至上主義」との違いを示せば
作家・作品・テーマにおける影響(支配)関係
作家至上主義
作家→テーマ→作品
作品至上主義
テーマ→作品→作家
といった違いになる。作家至上主義においては作家は作品の基点となるが、作品至上主義においては作家は出力の最終地点でしかない。作家は主体として表現するのではなく、テーマに隷属した作品を表現する為の装置に位置付けられる。
作品至上主義における最上位「テーマ」を、本文中リョサは「悪魔」と表現する。「悪魔」とは不可視・不可避を含意すると捉え、つまり作家は「テーマ」を認知する事が本質として不可能だとする表現とし、「テーマ至上主義」ではなく「作品至上主義」と呼称する。
これはあくまで「作家」が認知でき得る範囲という意味で、読者が必ずしもその範囲に留まるものではない。これはつまり、「作家」に対して批評は常に開かれる事を意味する。作家の意図を超える可能性を、読者は常に内含する。
・懸念点
「作品至上主義」は、作家のみならず文学好きならば一定首肯し得る感覚だと思われるが、懸念点もある。大きくは、作家至上主義以上に作品に対する作家の存在を無謬化してしまいかねない点だ。この立場にとって、作家とは作品に対する主体ではなく、テーマという悪魔に取り憑かれた客体でしかない。描けるものを選べない作家に作品に対する責任は生じない事になる。
また、最上位に置かれた「テーマ(悪魔)」は本当に「選べない」のか、という疑念もある。テーマとの接触は確かに偶然性に依拠し、個人の選択の余地は少ないだろう。しかし、このテーマ→作品→作家という構造自体に、個人の認知という歴史的・社会的・文化的バイアスを無化してしまう危険性がある。選んだ「テーマ」を正当化し、選ばなかった(選べなかった)テーマを不当に貶める結果との距離は決して遠くはないだろう。
・反ポリティカル・コレクトネス(PC)との接続
フェルナンダ・メルチョール「ハリケーンの季節」の訳者宇野和美氏のあとがきから引用すると
二〇一八年にマリオ・バルガス=リョサがエル・バイス紙のコラムで「フェミニズムは文学の敵」と書いた
とある。その後メルチョールは「文学もフェミニズムもバルガス=リョサを必要としていない」と返すのだが、引用からも明らかな様に後年のリョサは反PCに傾いた。リョサの著作から考えれば、フェミニズムに限定しても必ずしも距離のある作家ではなく、むしろ積極的に接近しようと努力した痕跡すらある。PCに積極的に関与しようとはしなくとも、反PCへと振り切るのは違和感があるかも知れない。
前段で、おそらく終生大きくは変わらなかったであろうと書いた理由はここにある。作品至上主義によって(仮想的に)自我は透明化される。十全な視野の元ならば、それでも視野に入る事によってテーマとの接触に社会性が付与され得るが、その自らの視野を問い直す機能性は弱い。視野の狭窄は矯正される事なく、新しい(とされる)価値観は、視野の外に据え置かれ、選ぶ価値のないテーマとして処理される。さらにリョサ個人の思想としては、強固な反共産主義が「神殺しの物語」やその他の著作でも見られる。それらと時流がマッチしてしまったのだろう。
・まとめ
リョサは「神殺しの物語」内において、特に「百年の孤独」の作品内における社会的完結性、円環性、そして何よりそれら全てを構築せんとする全体性を指して「神殺し」と呼び、それら途方もない計画を建てさせるテーマを「悪魔」と呼んだ。それは不可侵かつ不可能を志向させる不可避の誘惑を表現したものであり、何より作家としての立場からの作家論でもあった。しかし、その立場に固執した結果が後年の反PCに繋がったとも言える。現代における読解を志向するならば、神の不在の認識と不可視の悪魔を真正面から見つめ返す努力が必要だろう。リョサという巨大な作家が陥った錯誤から学ぶ事が、読者として出来るリョサの作品を未来へと運ぶ方法だと思う。