一年とぼける "アブサロム、アブサロム!" 1900年1月1日

アブサロム、アブサロム!
アブサロム、アブサロム!
ウィリアム・フォークナー,
篠田一士
まず端的に現代読解を旨とするのならば、フォークナー全般とは言わずとも「アブサロム、アブサロム!」に読む価値は一つしかないです。それは、トニ・モリスンの様な黒人作家達が自らの創作に使命を持たなければならなかったのか、その状況に思いを馳せる事ができるという事。しかし、それも黒人作家達の作品を直接読めばすむ事であって、ならわざわざこの作品を現代に読む価値はあるのか、と問われたら「無い」と答える他ないな、というのが個人的な結論となります。 ヨクナパトーファ・サーガに位置付けられる「アブサロム、アブサロム!」という作品は主に架空都市ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にした語りの作品であり、おそらく9割以上が語りによって構成されている。Wikipediaのアブサロム、アブサロム!の項から評を引用すると 「この小説は、様々な話者を使ってその解釈を表現させることで、フォークナーが考える南部の歴史的文化的時代精神を暗示している。」 とある。語り部を挙げると ローザ クエンティン クエンティンの祖父・父 シュリーヴ の五人となる。ローザのみ白人女性であり、他は白人男性。また、シュリーヴのみジェファソンの住民ではなく、カナダ出身となる。これらの語り部が時に言葉で、時に手紙で語りを重ねていく。その語りは時に重複し、時に矛盾しながら塗り替えられていく。 この語りの重複による危険性は指摘したい。語りによって進められる物語という事は、作品内において客観が殆ど存在しない事と同義であり、主観による伝聞や記憶違い、個人の感性の歪みによって事実に到達し得ないという構造となる。故に、語られる「真実」は事実と同等かの確認は作中においては不可能である。それは語られる順番とは関係の無い構造的性質だが、しかし作中においては前述の「真実」は時として後述の「真実」によって塗り替えられる印象を持ってしまう。全知の語り部の不在はしかし、後出しの「真実」を全知かの様に錯覚させてしまう。「語り」によって真実(時に事実)を塗り替えられると見られる描写は、現代における歴史修正主義と非常に近しいと言わざるを得ない。作品を毀損する程の警戒は無用だが、現代批評の視座に立てばこの歴史修正主義とのメンタリティの近似についての警戒は必要だろう。 Wikipediaの引用において「様々な話者を使って」とある。キャラクターとしてはその通りであり、五人のキャラクターが一方的、双方的に語っていく。これは本当に多声なのか?作家と作品を=で結ぶ事は必ずしも正しくない。しかし、確かに作品は作家によって書かれている。ここではその「多声」の分解を試みたい。主にアブサロム、アブサロム!における多声性の分解は二つの観点から可能だと考える。ジェンダー/人種という差別構造への批評性と(ヨクナパトーファ郡)ジェファソンという土地への「南部」という幻想性だ。 ・ジェンダー アブサロム、アブサロム!は語り部唯一の女性であるローザから始まる。中盤まではその語りが挟まるが、中盤以降は語る主体としてローザは排除される。以降のローザは語られる客体であり、また感情的とされるその人物像が強調されていく。彼女の主体が中盤以降存在しないという事は、同時に彼女の語りは作中の印象として「修正」され得る語りとして置かれ続ける事でもあり、ヒステリックとも見えるその人物像と相まって「語り」の真実性そのものが疑われる状態だと言える。そして前述の通り、ローザ以外の語り部は「白人男性」である。唯一の女性語り部は、こうして物語の「真実」から排除され、その行方は白人男性達の手に委ねられていく。それでもなお、彼女はその人種性によって語る場を排されている訳ではないのだ。 ・人種 前述の様に、語る主体として本作は白人以外を想定していない。しかしながら、本作は語られるものを客体ではなく主体として想定しているであろう場面も多い。代表は本作主人公とも呼べるサトペン(白人男性)であり、語る/語られるという主従関係を食い破らんとし、「語らせる」という行為に踏み入っている。この前提に立てば、語る主体としての異白人は存在せずとも、物語の主体としては異白人も存在し得る。では、それは行われているのだろうか? 取り上げるべきは、チャールズ・ボンだろう。ボンは白人男性の表象として表現される。サトペンの私生児であり、サトペンにとっては正式な子どもであるヘンリーとジューディスの異母兄。ヘンリーとの(やや一方的な)ホモソーシャル関係において、自身の同性/近親関係の渇望のその代替としてジューディスとの(二重の)近親姦をも望まれた人物である。最終的に彼はヘンリーによって射殺されるが、それは近親としての倫理的引き裂きによるものではなく、決定的となったのはボンに「黒人の血」が流れているという事だ。ボン自身、その死を不条理、不可解なものとして捉えている描写もなく、またそれが描写されるのはクエンティンとシュリーヴという白人男性二人の語り合いの中でだけである。 また、ボンの描写の変遷も気にかかる。序〜中盤におけるボンは、サトペンとの関係が明かされないのも相まってヘンリーを堕落し破滅に導く存在として語られる。サトペン家にとって外部の存在としてヘンリーに関わる存在だ。しかし、サトペンとの血の繋がりが示されて以降は、外部では無く内部として、また積極性を欠く流れもの的な人物として描かれ直す。 これらの描写から考えるに、ボンはその白人(父方)の血として、物語の中で語られ得る存在ではあるが、黒人(母方)の血として、その主体は語り部たる白人達によってコントロールされる存在でしかない。前述のジェンダーと共に、ここには女性性/異白人性という二重の抑圧が発生している。 また、サトペンが黒人奴隷に産ませたクライテムネストラ(クライティ)にも触れるべきだろう。ジェンダーと人種、それぞれの表象において他の人物からは半歩ズレた存在と言える彼女をどの様に解釈するか。語られはするが語られ切れない。語りに踏み込みかけるが語り切らない。クライテムネストラとはクリュタイムネストラの英語名であるから、ギリシャ悲劇に当てた解釈をすれば破滅を導く破壊者として、一種のデウス・エクス・マキナと捉えられるが、あまりにも通り一遍な解釈と思わざるを得ない。しかし、その通り一遍を否定出来る程強く語る訳でも語られる訳でも無い。「王家」としてのサトペン家を破滅させるには黒人の血が必要と考えたのだろうか。この解釈が正しいとすれば、ボンとの照応によって「人種」というファクターに埋め込まれた(無意識の?)差別コードとしてクライティを読み解く事もできるだろう。ジェンダーと人種という二重の差別を最も背負わされたキャラクターとも言え、作者の無意識の偏見が最も出やすいキャラクターだとも言える。フォークナー自身の差別への批評性の信頼性を測れないのもあって判断が難しいとしか今は言えない。 名前の通り、神話性を意図した「語り得ぬ他者」の象徴として存在したのか、神話化せねばならないほど「黒人の血」は他者であるという暗喩なのか。論ずるにはクライティへの解釈が不十分と責められても仕方ないという自覚はある。クライティへの解釈から、この論の全体が崩れる可能性はあるだろう。 上記二点により、本作において「多声」とされるものは、実質において「白人男性」に限定された声だと分解できる。異白人は主体を持ち得ず、女性は「真実」への踏み台としてしか主体を許されない。 しかし、白人男性もまた「多声」ではある。その多声性についての分解も試みたい。 Wikipediaの引用を再度引くと 「南部の歴史的文化的時代精神を暗示している。」 本作における「多声」とは白人男性の声であると分解した為、これは「南部白人男性」の歴史的〜と解釈される。 つまり、白人男性を多声足らしめている象徴は「南部」という土地にあると言える。 ここで語り部達に目を移したい。クエンティンの祖父・父に関しては出生地について詳しくないが、ジェファソンという土地に根付いた人物として描写されている。クエンティンとローザはジェファソン生まれ。翻ってシュリーヴは明確にカナダ出身とされている。 この明らかな異端はどう捉えるべきか。一般に読めば、アメリカ北部を飛び越え「カナダ」という南部とは遠く離れた異郷の外部の眼と読むべきだろう。 シュリーヴの作中における最大の役割とは何か。外部の眼として「南部」(ジェファソン)を見つめる事だっただろうか。それは明確に違う。彼の役割は終盤においてクエンティンと共にボンとヘンリーを「再演」する事だ。クエンティン/シュリーヴはボン/ヘンリーに成り変わる事によって、シュリーヴは外部の眼から内部の自己模倣へと変奏される。シュリーヴは語り部として自身を語り、その語りは、「南部」へと吸収されていく。 これは「白人男性」としての語りの土地を超えた伝播と読むべきか。はたまた外部性を許さぬヨクナパトーファというエゴと読み解くべきか。おそらくこの先は分析ではなく、こう読み取ったという判断になる。 本作にはフォークナーが作成した作中の年譜、系譜、ヨクナパトーファ郡の地図が付録されている。地図にはこう添えられている。 「ウィリアム・フォークナー、ただ一人これを所有す」 この言葉は作家としての茶目っ気であり、真正面から受け止めすぎる事はないとも言えるが、あえて真正面から受け止めよう。 ヨクナパトーファとは南部に位置する架空都市ではなく、それを仮装したフォークナーの自我の投影である。前記した通り、本来は他者たるシュリーヴもまたフォークナーの自我に吸収される。それをもって、この作品における語り部は皆フォークナーの自我の変奏と化す。つまりこの作品における「南部白人男性」の声とは、南部白人男性という多声ですらなくフォークナーの自我の鏡像達が産み出す、フォークナーという個人のみの声なのだ。自らの声を自らが吸収するという自己循環こそがこの作品の本質とも呼べるだろう。 しかしながら、歴史的な批評としては確かに「多声」として評されてきた。その矛盾を解くにはセジウィックを引くのが良いだろう。 前出してしまっているが、ホモソーシャルによってその矛盾は説明できる。ホモソーシャルとは同性同士(主に男性)の性的接触を伴わない関係性を指す言葉だが、それにはしばしば連帯感や承認欲求も付与される。連帯感やコミュニティにおける承認に使われると言われるのは、主にホモフォビア(同性愛差別)やミソジニーによって行われるコミュニティからの対象者の排除による連帯感の向上、性的対象者(女性)の「献上」によるコミュニティからの承認だ。作中のボンに対するヘンリーの態度を鑑みれば理解しやすい概念だと思う。 フォークナー存命当時の文芸界は現代よりも多様だっただろうか。いや、その場は現代以上に主として白人男性によって占められていた。そこで行われていたのは、セジウィックがイギリス文学界に見たホモソーシャルのアメリカ版である。その世界で行われた全ての批評が等しく無価値とは言えないが、そこには「白人男性」という無形化された連帯感がある。その中では「個人」は必ずしも「個人」として有形化されず、無形化された透明な網を伝って全体化される。つまり、「南部」という土地に吸収され「南部白人男性」の声としての多声とする前提とは、「白人男性」というホモソーシャルによって支えられた虚構であり、そこには「個人」を真に「個人」として認識できないままのフォークナー自身の声だけが残る。 以上によって、アブサロム、アブサロム!における多声とは白人男性に限られた多声であり、またその白人男性の多声とはホモソーシャルによる幻想が産み出したフォークナーという単声であると結論付けられる。共同体作品としての虚構を剥がす事で過去の批評軸自体への疑義を提示する。 フォークナーの単声作品としてはどの様に評せられるのか。残念ながらまだその視点での評は多くないと感じる。共同体幻想は現代批評の視座においては暴かれる。既存の批評に則って作品を解釈するのならば、すでにその寿命は尽きた。これはいかに批評が更新されないままだったのかという証左でもある。現代批評における作品の再構築を急がない限り再興される事は無く、何となく難解な作品としてフォークナーは先細り忘れられていくだろう。
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