
花木コヘレト
@qohelet
2025年12月8日
パウロ
青野太潮
読み終わった
図書館本
キリスト教
もしあなたが、プロテスタントの教説を受容できる方だったら、読んでおいて損はないと、強く、推します。
つまり、イエスの十字架を、贖罪説から「十字架の逆説」へと、著者が大きくシフトさせているからです。この「十字架の逆説」は、確かに信仰義認論と相性がよく(というか贖罪説が信仰義認論と相性が悪過ぎるのですが)、私にはとても新鮮に響きました。
「十字架の逆説」とは、簡単に言えば、十字架におけるイエスの存立位置を、可能なだけ思い切り引き下げることです。「すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(一コリ1・23)としてです。つまり、私たちは、あられもなく殺されてしまったみじめな十字架のイエスを見、そこに弱さと愚かさを感じ、けれど同時に神の栄光をも見ます。
イエスが十字架に掛かってまで、弱さと愚かさを象徴したということは、つまり極めて単純に、イエス・キリストが私たち一人一人の弱さと愚かさと等しくなり、そして神がそれを肯定している、ということだと私は思いました。そこにおいて、私たちの弱さと愚かさは十字架のイエスとつながっています。弱さと愚かさとは、神が大きく肯定する、私たちに与えられたある種の力であり、才能であり、財産なのだと思いました。
著者は繰り返し、パウロにとってイエスは十字架にかけられたままであったと、繰り返します。また著者は、イエスは十字架上で、絶望していた、とまで書いています。絶望の死といえば、必然的にユダが思い出されますが、つまり、神はイエスをそこまで突き落としていた、と私は解釈しました。イエスがそこまで引き下げられた理由は、やはり、ユダを救うためであり、またユダよりも愚かかもしれない私たちが、私たちの弱さや愚かさを、イエス・キリストとして再発見するためだと、私は思います。
パウロにとってそうだったように、私たちにとってもまた、イエスは十字架に掛けられていると、私は思います。「十字架の逆説」は、私たちの前に、十字架のイエスを突きつけてきます。弱くみじめなイエスを、突きつけてきます。そして、そのイエスを信じることで、私たちは私たち自身を十字架に掛け、結果、私たちはみじめになり、私たちの弱さと愚かさを、私たち自身に露呈させることになります。
著者は本書の最後で「神は、自らの足りなさと弱さを知る者をこそ義として肯定する」、「われわれの希望は唯一そこに存在する」と述べています。私も、何の力も持たない人間として、強くそう思います。
つまり、私なら、私の弱さと愚かさ、普段は私を苦しめることにか寄与しない、私の弱点たちこそ、真の私の力なのだと思います。これは山上の説教で、明らかすぎるほどに明らかにされていることだと思います。あふれるほどの貧しさや悲しさに耐えて、逆に貧しさや悲しさから教わる姿勢を持つときに、私たちは大いなる力を、手にすることができるのだと、私は思います。本書の「逆説」は、それを教えてくれたのだと思います。

