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花木コヘレト
花木コヘレト
花木コヘレト
@qohelet
下手の横好きで、詩が好きです。ハンセン病文学に関心があります。
  • 2025年11月25日
    イエス伝
    イエス伝
  • 2025年11月23日
    いのちの女たちへ 新装改訂版: とり乱しウーマン・リブ論
    本書を読む中、ずっと意識していたのが、タイトルです。つまり、著者は、生命を肯定しています。内容を読めば、性もいっぱいに感じています。これは、近代的社会によって、「取り乱し」を余儀なくされていることよりも、以前にあると、私には思えました。決して、著者は、またリブの活動家は、生命を否定的に総括しようとしていません。痩せ細っていません。社会の不備を批判はしても、生命は大きく肯定しています。これが、私にはとても、良い意味で楽天的に感じられました。 また、本書では、祈りという言葉が、数は少ないですが、出てきます。これも素晴らしいと思いました。祈るというのは、自己の力の限界の先にある、別の力につながることを意味すると、私は思うからです。つまり、心が外部に開かれていることを示すと思います。コミュニケーションを取る意思は、著者や、その周りの活動家の方々に、余白があることを意味しているでしょう。 その余白が、私には、タイトルと結びついて、男性と女性の、細いけれども、通路になると感じられました。 きっと優秀な、いえ、決して優秀である必要はないのでしょう、心ある、この世の半数を占める性に属する男性は、彼女らと結ばれるでしょう。そう感じられて、私は嬉しかったです。
  • 2025年11月20日
    イエス伝
    イエス伝
    若松さんしか書けないイエス伝だろうな、というのが、読後の正直な感想です。著者の多岐にわたる芸術の知識だけでなく、その勇気においてもそうだと思います。 本書は確かに、四福音書に基づいて記述が進行しています。ですから、本書を読めば、おおまかなイエスの生涯はつかめます。けれど、本書を通して読者が一つのイエス像に辿り着くかというと、私はそうは思いません。むしろ、イエスの多面体に読者は驚かされるのではないかと思います。 筆者が繰り返し主張するのは、イエスの高い霊性です。クリスチャンではない私が霊性を論じることは困難ですが、筆者はイエスが神の国を意識する、その意識の高さに繰り返し注意を向けます。イエスに言及する知識人の多くが、イエスが積極的に低い立場へ向かおうとする態度に注意を向けることとは真逆です。その代わりに、私たちと同じ低い立場として描かれるのが、ペテロをはじめとする弟子たちであり、また罪人たちです。特に、ユダに対する筆者の眼差しはとても温かく、私たちの中に生きるユダ的な要素を慈しむかのように、ユダ本人を慈しんでいます。ユダに石打つ者は姦淫の女に石打つ者と同じだとする、筆者の指摘はとても鋭く、私たち凡夫を誰をも捌くことのない地平に連れていくかのようでした。 現代のキリスト教は霊について語ることが少なくなっている、と不満を表明する筆者は、イエスが常に霊のレベルで世界を見ていたことを論じています。本書は稀に見る、イエスの「高さ」を言明する書籍だと思います。
  • 2025年11月19日
    小林秀雄 美しい花
    若松英輔さんをナビゲーターとして、小林秀雄の様々な著作を巡る、大いなる旅にも似た読書体験でした。 まず、単行本で600ページを超える分量がありますが、著者がキーポイントを噛み砕いてくれるので、とにかく読みやすいです。会社員の私でも一週間かからずに読み終えることができました。ただ、「小林秀雄も若松英輔さんも一冊も読んだことがない」という方は、まずはどちらかでエッセンスを感じてから、挑戦した方が無難だと思います。 ただ、かくいう私も小林秀雄論を読んだのはこの本が初めてで、改めて小林の生涯の仕事の幅広さに驚嘆したところであり、それをカバーする著者の読書量にも、ため息が出たところです。なので、新潮文庫や文春文庫などで小林に親しんできたつもりの私も、結局は小林の初心者なのだなあと、思い知らされたところです。 そんな私でも、本書の指摘で感動できたところがあって、それは中原中也やプロレタリア文学との、小林の交わり(対決)を筆者が描き出しているところでした。つまり、筆者は中也にも左翼側にもとても配慮を示した書き方をしているからです。 恋愛事件については、「本人たちにしか、いや本人たちにすらわからないことがある」として、その「勝敗」をつけずに、あくまで恋愛を事件として生きたそれぞれの衝撃に注視することに留まります。 また、プロレタリア文学者側には、マルクス主義への熱狂をキリスト教への信仰とパラレルに見て、むしろそこに無私の精神を見出しています。 もちろん、小林の関係者の心情を重んじることは、そのまま小林を擁護することになり、筆者も読者も保守的な域に留まらせるものです。しかし、歴史を悲しみの目で見つめることは、若松さんの他の著書でも展開される、筆者一流の対象への接近術であり、その部分を読んでいて私は非常に心地が良かったです。 著者が本書で主張したいことは、600ページの分量に比べて意外に少ないと思います。つまり、私たちが生きていく上で、日常の手応えのようなものを、決して忘れてはいけないよ、ということだと私は思います。本書の言葉で言えば、超越者との交わりを都度回復することを怠ってはならない、というような感じになると思います。 つまり、目には見えないこと、耳には聞こえないこと、あるいは過ぎ去った歴史などから、目を逸らしてはいけない、現象の奥にある物事こそ、私の人生を豊かにしてくれるものなのですよ、ということを、筆者は小林の業績を辿りながら、繰り返しているのだと、私は思いました。 特に、ドストエフスキーを取り上げている箇所では、イエスとドストエフスキーの関係を、親鸞と法然の関係になぞらえて描き出している部分があります。つまり、宗教的な情熱をもって、実在の世界と関係を結ぶことを、小林の仕事を語りながら著者は読者に訴えており、非常にスリリングな批評になっているなと、手に汗を握りました。 ただ、小林も若松さんも、ビビットで一流の世界を求めており、機械的な日常に幸せを感じている人には、冷たいのかな、という感想は、正直にいうと持ちました。今回本書を読んで、私には小林が、悪い意味で愚連隊に見えてきたというのはあります。形骸化した歴史や宗教や文学の中で生きている人も、同じ人間ではないのかな?愛や実在を生きるのが人間ならば、そこから外れた機械的な毎日に幸せを感じる人もいるのではないかな?と、私は思いました。つまり、私は自分が凡庸以下の人間だと思っているので、本書は希望の書でありながら、不幸であることの幸福をすくい取ることはしていないな、という不満は感じました。 それでも、私たち人間が、自由を常に求めている生物であることも、間違いありません。若松さんや小林が開いた真の革新的精神を、本書の読書体験を通じて身につけることも、私たちの幸福に、しっかり寄与すると、私は思います。短いですが、この辺で、
  • 2025年11月15日
    悲しみの秘義
    悲しみの秘義
    水底を流れていく深い藍色のような書物でした。 収められた26編のほとんどすべてが、なにかが過ぎ去っていくことの悲しみに染め上げられていました。 本書を読むことは、からっぽの青空に沈んでいくような、また、日常のうちに潜む密やかな隙間を呼吸するような、静謐な経験でした。 私たち生き物にとって、孤独や悲しみはむしろ滋養となるもので、そこから生まれる感情に身を浸すことは、世界への扉を開く鍵を手に入れることと同義であると、著者は繰り返しているようでした。 著者が本書において伝えようとしていることは、引用されている古典の多さに比べて驚くほど少なく、同じことが角度を変えて、何度も主張されています。 その中で、本書において非常に印象に残ったことは、私たち読者へ、読書をするだけでなく、「書く」という行為に踏み出すことを勧めている箇所です。 言葉を書いてみなくては、私たちは私たちを気づくことはないと、著者は言います。本当の自分に出会うために、詩や文章を書いてみること、それが難しければ誰かの詩をや文章をノートに書き写してみるだけでも構わないこと、この勧めが何度も繰り返されています。 私は短い詩を書く人間なのですが、今まで他の人の詩を書き写したことはないので、早速今から実践してみようと思います。 もう一つ、本書の中で魅力的に感じた箇所は、越知保夫さんの、パスカルに言及している部分の引用です。 「〔パスカルの〕『パンセ』が我々をつれて行く場所は、そのような高みではない。パスカルは我々をもっと低い場所へ導く。もっと空気が濃密な場所へ。」(pp30-31) 私も『パンセ』は一読だけしたことがあるのですが、その時は低く空気が濃密な場所、という意識は持ちませんでした。むしろ涼しい風が吹く場所、小高い山の中腹のような所にある空気を呼吸した感覚でした。だから、著者と越知さんの言いたいことが今の私にはわかりません。 しかし、引用箇所がとても魅力的な文章であることも、間違いありません。誰かと競うように高みを目指すのではなく、人間の常識や、生きて行くための知恵が集まるような場所で、私も生きていきたいからです。 最後に、本書に挿入される、沖潤子さんの布織物とその写真がとても良かったです。本書は文庫本で250ページくらいの、薄くて小さな本ですが、若松さんの珠玉の文章がたくさん詰まった、宝石箱のような書籍だと思います。
  • 2025年11月14日
    読み終わらない本
    来週の読書会で若松英輔さんを紹介したいと思っているので、集中的に、この四日間で三冊、若松さんの著作を読んでいます。 でも、若松さんを読んだことがある方はご存知と思いますが、彼は特に読書において量より質をとても重視しています。なので、読書会のためとは言え、急いで読んでいる私の態度を、私自身が「ああ絶対矛盾だ」と思っていました。 なので、書かれるだろうなとうすうす思っていた、急いで本を読むことを戒める言葉に、ちゃんとぶつかりました。 「多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。」(『読書について』ショーペンハウエル) ああ、やっぱり言われた、でも言われないより言われて良かった、と多読の罪を指弾されて安心しています(笑) 若松さんの言葉は決して難しくありません。しかし、難しくはないがゆえに、ゆっくり味わって読まなければ見落としてしまう言葉がたくさんあります。しかも私は(ほぼ)完全図書館派なので、ひとまずこれで本書ともお別れです。若松さんの魂の言葉をすっ飛ばすという、いやあ大罪ですね。反省です。ただ、それでも二つだけですが、金言を拾えました。 一つ目は、「人は、知らない、分からないと感じたとき、ほんとうの意味で学ぶという本能に、小さく明かりが灯る。」(p69)という文章。これは僕には完全に当てはまります。僕が本当に読書したいと思ったのは、社会人になって随分経ってから、「もう学校に行って勉強することってないんだ」という当たり前の事実に愕然とした時のこと。その時、「勉強したい!」と思いました。それから読書が、必然であるとともに、同時に楽しくなりました。僕の場合も、失ってから気づくという、お決まりのパターンです。なので、この若松さんの文章を読んで、もっと読書したくなりました。ありがとうございます。 二つ目は「むずかしいものを読めるようになってくると、人は、ある難解さがないとそれをほんとうのことだと感じなくなる。」(p76)という文章。これも深く頷きました。だから僕は若松さんの本が本当だと思えないという、深い病を抱えているんです(笑)でも、そのお陰で、やさしい言葉で書かれた文章ほど、逆に丁寧に読むクセがついてきました。だから現在は、岩波ジュニア新書とかを、逆に手に取りたくなりますね。本書も、多分主な読者層は中高校生だと思うんですが、読むのは急いでいるんだけど、気持ちは非常に頭が下がる思いで読みました。 と言うことで、本書は、中高生向けでも、若松節の炸裂した良書だと言うことになります。簡単ですが、この辺で。
  • 2025年11月13日
    魂にふれる
    魂にふれる
    思いつくままに書きます。(まあいつもそうですが(笑)) まず、本書を昨日今日の二日で読みました。今日の午前中に、体調が変だなあと感じたのは、多分この本を読んでいたからです。目の前の現実から現実感がなくなるような感覚で、本書のテーマである「死者の世界」が、いつもの日常の世界に流れ込んでくるのかなあ、と思いました。 なので、100ページくらい読んだ時に、正直「やばい本なのかな?」「読むのを中断した方が良いかな?」と心配になりました。ですが、この若松さんの本は、東日本大震災を取り扱った本だということを、今日の午後に今更ながら理解し直して、「震災を扱った本なら、内容が重いのはむしろ当然だな」と考えて読むことを続行しました。現在は先ほど読み終わったところです。 読み終わって良かったかどうかは、正直判別が付きません。というのは、この本はちょっと特殊な本で、つまり、読み始める前の自分にはもう戻れないな、という感覚があるので、読んだ時/読んでない時、の比較がとても難しいからです。 この本の場合の、読む前に戻れないというのは、死者の存在が身近になった(なってしまった)ということです。震災から14年過ぎてしまった現在、感想を簡単に言えば、お墓参りはきちんとこれからも行っておこうと思い直した、と言えばそれだけのことかもしれません。でも、もっと言うと、この本からは、「貧しさ」みたいなものが、与えられたような気がします。ホントうまく言えないのですが、若松さんの「しつこさ」みたいなものが、体に張り付いてしまったなと言う感覚があります。 本書を読みながら、ずっと思い出していたのは、茨木のり子さんの『歳月』という詩集です。これは亡くなった旦那さんへのラブレターみたいな詩が、ずっと続く詩集なんですけど、この詩集を読み終わった後に、茨木さんの愛の世界に包摂されてしまったな、詩集からダダ漏れてくる愛を飲まされてしまったな、という後悔を感じました。ただ、両方に言えることは、二冊ともお守りみたいな効果を発揮する本です。僕は日頃の行いに自信がないので、死者が僕の味方をしてくれるかどうかが自信がないのですが、二冊とも死が身近に感じられて、その分だけ死が怖くなくなります。でも副作用もあって、身近に感じられるだけ、死にたくなってしまうという(笑)、そういう危険もあります。 だから、本書を裏切るようですが、本書は、死の近接が嫌いな人は、もう生理的に受け付けられない本だと思います。ただ、宗教家だって、死者の世界に踏み込んで言葉を書き連ねることは、あまりしないですね。そういう希少価値は本書にはあります。だから好きな人は貪るように読めるかもしれません。 けれど、じゃあなんで宗教家すらも死者の世界をあまり言語化しないかというと、鬼神は敬してこれを遠ざくという(悪)知恵もそうですが、基本的には死者については沈黙することが、現実世界のマナーだからですよね。だから、若松さんはタブーを犯している、というのは本書を読む前から意識しても良いと思います。 けれど、けれどですね、誰かが口を開かなければ、死者との距離について、困っている人もいるというのも事実だと思います。なのでそういう意味においては、本書は非常にありがたい書でもあると、思うわけであります。 簡単に、これくらいで。
  • 2025年11月12日
    内村鑑三
    内村鑑三
    著者の若松英輔さんが、内村鑑三と読者の、通路になってくれている、そんな本です。 まず、内村鑑三の伝記的事実を並べていった本ではない、ということは、細かなことですが、注意して良いと思います。伝記的事実を知りたい方は、他の良書を当たった方が良いでしょう。 また、言葉にするのが難しいのですが、この本は、内村鑑三「論」とか内村鑑三「像」を、読者に提示することを目指している本でもないと思います。スタティックな内村鑑三像を求めている方も、きっと本書は期待に応えられないでしょう。 では、本書は何を目指しているのか。これは、内村鑑三の霊を読者に注ぐことである、と私は読みながら、そう受け取りました。というのも、私はこの本の体験が、読書というより食事の感覚に近かったのです。つまり、著者の若松さんが、内村という素材を使って、読者の胸を温かなsomethingで満たそうとする、そういう企ての本だと思いました。ですから、本書においては内村は読者の心を豊かにするための一つの手段に過ぎなくなっているようにすら、私には感じられました。 もちろん、本書は、内村やその弟子の著作集からの引用で構築されており、若松さんの恣意的な操作で、内村が蹂躙されているわけではありません。しかしながら、やはり本書の目的はというと、繰り返しになりますが、内村像を読者の前に提示するというよりは、内村の心と読者の心を共鳴させることを目指して、作られているように感じました。本書は内村の生涯を追いつつも、とにかくその時々で、内村がイエスとどう直面していたか、その緊迫した面接を直に掬い取ろうとするところに、若松さんの筆が向かっているように感じました。 そういう意味で、スリリングとすら言えるような読書体験が本書では用意されています。若松さんはカトリックなので、どうも使われている言葉がねっとりしていたり、霊とか魂とかの言葉の連発とかで、逆に空疎に響きかねないところがあったりするのですが、私としてはそういう抽象的な言葉も、想像力を逞しくして読むことができました。 キリスト教というのは、結局イエスとどれだけ面と向かって霊的に強く結びつけられるかだけだと思うので、そういう直接的な、霊的な現場を目撃なさりたい方には、お勧めできる書籍だと思います。
  • 2025年11月11日
    【増補新装版】障害者殺しの思想
    誤解を恐れずに言いますと、読んでいる間、ずっと著者の横田弘さんのことが「悪魔」的に見えていました。とにかく本書は、障害者の目線に立たない論理を、「私たちをあってはならない存在として」いる論理だと、強硬に突っぱねているように見受けられました。著者によれば、大切なことは「愛と正義を否定する」ことであるので、きっと読みながら私が感じた「悪魔」的な雰囲気というのは、この否定の精神に根拠があるものだと思います。 しかしながら、私は本書から、決定的なことを学びました。改心したと言っても過言ではない影響を受けました。それは、私たち人類が一人ひとりが平等であるという考えが、むしろ私を含めた社会的弱者を苦しめているという、決定的自覚です。社会的な疎外というものは、差別の上に生じるものではなく、むしろ平等の上にこそ生じるという意識です。そして、この苦痛こそが、私たち社会的弱者の生きている証であるという事実です。 私たちは、人間平等という真実を知ることによって、安楽になるのではなく、むしろ闘争へと引き摺り込まれるのです。 生命、これを現時点では人類の生命に限定しますが、生命は、すべからく平等であるということは、生命はそれぞれ一つ一つが生かしめられなければならないということです。つまり、生命は、個々に独立しているのであって、尊重されるのであって、その意味で個は全体にすら対等であるのであって、即ち近代以降の社会的弱者の視点からすると、全体という概念は否定されます。この、一つ一つの目からしか、世界を見ないこと、この立場に立ち続けることができたのは、CP者が、それだけ社会的弱者であることを示します。その意味において、私は本書を、著者の闊達な精神力に関わらず、悲しみの書として読みました。 どこまでも、いつまでも虐げられるものとしてのCP者。そしてそれは私たち自身の鏡であります。本書を読むことで、私の心の鏡に映った、私の中に住むCP者を見せてくれたという意味において、私もまた最も小さきものとして、社会に踏み潰されないために、一つの連帯の輪に加わりたいという、気持ちを持つものに生まれ変わりました。
  • 2025年11月8日
    「利他」とは何か
    「利他」とは何か
    五人の執筆者が有名な方ばかりで、「利他」が現代のキーワードだったとは知らず、どんなことが書いてあるのだろうと、興味で読み始めました。結果、読んでよかったです。 読みながらずっと思っていたのは、利他心は、達成が困難である一方、人間(あるいは生命それぞれ)に必要不可欠なものではないか?という問いです。仮に純粋な利他が不可能であったとしても、同時にあらゆる生命は他者への奉仕を必要としているのではないかと、私は思いました。私たちは生涯、利他心を捨てることはできないと、です。 たとえば、友人は自分の鏡です、とはよく言われることです。私たちはその友人を、もっというと、障害者をこそ、人間は必要としているのではないか?と思います。見返りを求めない純粋な利他がなければ、私たちは生きていけないのではないでしょうか? 本書の五つのエッセイで構成されていますが、実際に利他をキーワードとしているエッセイは、伊藤亜沙さんと中島岳志さんの二人(と若松英輔さんがちょこっと)だけ。國分功一郎さんと磯崎憲一郎は、利他とは少し離れたところで論を展開しています。 その中でとても心に残ったの考え方が二つあって、一つは伊藤さんの、利他は自己の変容が伴うことがある、という指摘です。二つ目は、中島さんの、利他は私たちの外からやってくる、という考えです。 一つ目の指摘は、私も経験的に知っています。が明瞭に言語化はできていなかったです。つまり、相手に染まっても構わないという態度が取れない限り、奉仕は必ず一方通行になるという現実です。相手に何かを差し出すときは、自分も何かを受け取る覚悟がないと、奉仕は不可能になるということ。これは誰でも経験的に知っていますよね? 二つ目の指摘もとても感動しました。つまり、奉仕は私たちの想像を超えたところにあって、第三者の介入を信頼しない限り、あるいは自力を超えた力を信じない限り、いつまでも自分の殻に閉じこもったままですよ、ということだと思います。 これは本当にその通りだと思います。人間同士というのは、奉仕を狙っていないときにこそ、本当の奉仕が可能だからです。そこでは私たちは相手に対して無私として現れているのだと思います。これはとても嬉しい「見返り」です。 とても良い本でした。
  • 2025年11月8日
    地面の底がぬけたんです: ある女性の知恵の73年史
    ハンセン病文学では、私は明石海人が群を抜いて素晴らしいと思っているのですが、随筆分野も勝るとも劣らずで、決して侮れません。岡潔は日本は随筆(エッセイ)の国だと言っていますしね。 私が言いたいのは、つまり、ハンセン病文学では宮崎かづゑさんの存在が大きいということです。しかし、藤本としさんは、私にとってはもっとすごかったです。人間が生きるということが、毎日が真剣勝負になっています。けれども、それは実に朗らかです。藤本さんは呵呵と笑っています。つまり、藤本さんの随筆は、自他を活かす言葉の宝庫になっています。誤解を恐れずに言いますと、単なる生活に堕していない。生きていることに一生懸命ですが、決して人間の醜悪な部分は開き直っていない。気品があると言ってもいいと思います。非常に多くの事柄が学べます。つまり、人間が生きるとはどういうことかということが、豊かに示唆されています。 「ピンセット」という題のエッセイがありました。藤本さんは、心のピンセットで、毎日喜びや自然の美しさなどを、つまんでは心の中にしまうそうです。そうやって毎日過ごすんだそうです。それは先輩方から学んだものなんだそうです。そうやって、心の位置を巧みに整えている方なんです。目が見えなくても、五体満足でなくてもできる方なんです。生きるということ、生き抜くということ、でも藤本さんは肩に力は入っていないんです。怒ってはいないんです。私は藤本さんに頭が上がらないです。
  • 2025年11月7日
    無意味なんかじゃない自分 ハンセン病作家・北條民雄を読む
    本書において、筆者の荒井さんが北條民雄の素顔に迫れているのは、ひとえに、荒井さんの読書の幅の広さと蓄積、そして学者として文献の研究手順を踏まえていることに、負っていると思います。 その本書は、ハンセン病についての概説書的な役割も果たしながら、北條の代表作である「いのちの初夜」と、その裏面である彼の日記の、両者を分析しているのですから、もともと北條の読者であった人も、これから読者になろうとしている人も、手にとって損はない書籍となっています。 特に、本書の白眉は、北條の日記の(部分的ではあるにしろ)精密な読解にあるでしょう。この読解に筆者が成功したことによって、小説からでは読み解けない北條の素顔に、読者が接近することが許されるわけです。 北條民雄の小説は、ハンセン病文学という魅力を増して無類に面白いため、近代日本文学に関心を持つ方ならば、きっと本書も楽しめると思います。 もし、本書を読み終えた方で、かつ、まだ北條の作品に親しんでいない方がいらしたら、私としては、北條の「すみれ」という、文庫本で5ページほどの掌編をお読みになることをお勧めします。本書の補完的な役割を果たしてくれると思うからです。
  • 2025年11月6日
    明石海人歌集
    明石海人歌集
    最高の一冊でした。でも収録されている歌の3割もわかっていないです(笑)。それに私自身が歌集というものを読み終えられたのは初めてで、なんと言っても読解に時間がかかります。サッと読んだだけだと短歌が全然頭に入って来ないので、何度か読むんですけど、そうすると全然ページが進まないというストレス(笑)。それでもハンセン病の本で一番好きな本になりました。村井紀さんの解説も、グイグイ引き込む文章でした。 解説を私なりに要約すると、「海人はハンセン病を生きると同時に生きさせられていたが、それを余裕を持って引き受けた上で、作歌に勤しんでいました」ということだと思います。だから海人の文学は、明治近代国家や医師からの抑圧の元にあったという意味で、おのずからその限界が可視的なのですが、私にはその可視的な限界が非常に魅力的に映るのです。 つまり、海人は逆らわなかったわけですね。長嶋愛生園の意思に従ったわけですね。しかしこれが極めて大切なのですが、逆らわなかったと同時に戦っていた。これが私には素晴らしいと思うのです。つまり、誰だってその時代や状況の枷に縛られているけれど、人間が戦うべき相手はその枷ではないと、私は思うんです。ハンセン病という一つの運命があって、その運命に国家や医師のエゴとか税金のように乗っかってくる。でも、それが戦うべき相手ではない。海人はその戦うべき相手を取り違えなかったという意味で、苦しい状況の中でも聡い目を持つことが可能であるということを、私たちに示してくれていると思います。 私が一番好きな歌はこれです。 「蒼空のこんなにあをい倖をみんな跣足で跳びだせ跳びだせ」p157
  • 2025年11月1日
    詩の誕生
    詩の誕生
    内容が面白く、分量も少ないため、一気に読み終えられました。「詩の誕生」というタイトル通り、私たち人間にとって、詩がかけがえのないものとして生まれた、として捉えられていました。詩を愛する者として、豊かな感情に包まれた感覚を持ちました。 詩の誕生とその死が、冒頭では語られていますが、本書の主な内容は、大岡さんと谷川さんの詩作秘話です。自動筆記や、他の創作契機の話などが、ふんだんに話されています。詩を書く人は関心の高い話ではないでしょうか? 私としては、大岡さんが心理的・情緒的な人で、谷川さんが即物的な人、という対立がとても面白かったです。確かに谷川さんは少年的で、大岡さんは壮年的だと、私も思うからです。あと、二人とも認めていたのは、谷川さんの詩の言葉が、恐ろしいくらい「正確」だということです。本書では、谷川さんの「コップへの不可能な接近」が取り上げられていて、この詩は散文なんだけど散文を超えている、というような話がありました。僕も谷川さんの、ある種ザッハリッヒな言葉の態度は、すごく気になっていて、読んでいて体調が悪くなることもあります。大岡さんの詩の方がやっぱり僕は好きだな、と認識を新たにすることができました。 それと、実にその通り!と膝を打ちたくなったのは、日本人の口語自由詩には、もう七五調は永遠に戻らないという指摘です。僕も、児童文学を除く、文学や詩の言葉は、リズムとかが生きていなくて全然いいと思っていて、特に私たちの肉体に根付く言葉は全部死んでいて良いと思っています。谷川さんは健康な言葉を欲しているみたいでしたが、僕は、文学の言葉は病んでいて良いと思います。 そういう意味で、自分が詩というのは立ち枯れてしまって良いと思っていることが、本書を通じて分かりました。生きている言葉を求めるのか、それとも死んでいる言葉で耐えるのか、というのは、創作活動をしている人間にとって、大切なテーマだと思うので、本書を読んでよかったです。
  • 2025年10月31日
    まとまらない言葉を生きる
    まず、amazonでもreadsでも、びっくりするくらいの評が付いていて、驚きました。障害者福祉にも関心を持つ方が多いのは、ハンセン病に関心のある私にとっては、うれしい驚きです。 次に、不満点を述べておくと、著者の問題意識のあり方が、ステレオタイプかなあと思いました。語り口が柔らかいのは、文章が読みやすくなるので良いのですが、問題点を鋭く言葉で掴むのに、問題意識の曖昧な出発点は、分かりやすいリベラル一般の意識のそれでした。だから、著者の言葉は、充分過ぎるほどマジョリティのもので、決して「まとまらない言葉」ではないのではないか?と疑問を持ちました。本書に示された問題意識は、著者の独自の問題意識とは呼べないと思います。歴史的に繰り返されてきている問題意識、と言えると思います。 にも関わらず、著者の優れた点は、歴史に埋もれている言葉を丁寧に拾い上げている点と、鋭い問題提起を提出できる点にある、と思います。特に後者の問題提起については、p136にある「文学者の仕事は「無い言葉」を探すことだ」という鋭い指摘があります。著者の非凡な能力を示す指摘だと思います。僕は詩を書く人間なのですが、まさに詩とは「この世にまだ無い言葉」を造形する作業だと思いますので、著者の鋭さには深く唸らされたところです。
  • 2025年10月30日
    強制不妊 旧優生保護法を問う (毎日新聞出版)
    まず、不満点からです。誤字脱字が多く、読書欲が削がれたこと。繰り返し説明される論点とそうでない論点が「まだら模様」で、論点整理が不十分に感じられたこと、などです。それはそれとして。 私にとっては、衝撃的な本でした。私はハンセン病の本は何冊か読んでいるのですが、知的・精神障害の方も、ここまで「強制不妊」に蹂躙されているとは知りませんでした。良い意味で、ハンセン病が相対化されました。つまり、ハンセン病に限らず、人間は、差別できるものはなんでも差別して蹂躙する動物だ、ということです。どこまでも私たちは無感覚でいられるのです。これは皮肉ではありません。皮肉にならないことが絶望的なのです。そして、そうであってはいけない、と私は思います。 私たちの生命は平等なのです。どこまでも私たちみんなが、のびのびと暮らせますように、そう思います。
  • 2025年10月28日
    「病いの経験」を聞き取る[新版]――ハンセン病者のライフヒストリー
    まず、本書の中に登場したハンセン病回復者の方、それにこの労作を世に送り出した著者やその周りの方々には申し訳ないのですが、本書は名著でしたが、私には生理的なレベルで、受け付けられませんでした。そもそも、私には難しすぎる内容だったのかもしれません。 単刀直入に言うと、著者が、フィールドワークの時に、ハンセン病回復者の方と、同じ地平に立てていることが、私には最後まで受け入れられませんでした。回復者の方と著者の間に、断絶がないように、あるいは断絶が乗り越えられているように、私には感じられました。そういう意味で、皮肉は一切なく、本書は希望の書だと思います。たとえば神谷美恵子を例に挙げれば、彼女の悲願であった、ハンセン病患者と健常者が肩を並べて語らうこと、これが、本書の中では自然と達成されているように、私には読めました。しかし、私には、この達成が社会学者によって成し遂げられることは許されることではないと感じました。 私が今まで読んだ回復者ののインタビューの中で、最も素直に読めたのは、福西征子さんの「ハンセン病療養所に生きた女たち」なのですが、著者は医者でありながら、医学を離れて回復者の人間像に迫っているように、読めました。しかし本書では、むしろ社会学は武器となって、取材対象者の光と影を浮かび上がらせています。論文だから当然なのですが、しかし私は読みながら、「こういう話は社会学者同士の内輪の話でやってくれよな」とずっと思っていました。もっと言えば、本書は114体の赤ちゃんの標本と何が違うんだろう?と疑ったほどです。社会学的にはメモリアルな労作かもしれませんが、ハンセン病は社会学のためにあるわけじゃないよな、とずっと思っていました。 私としては、ハンセン病回復者の苦しみに触れることができれば、それで十分なのです。しかし、本書においては、回復者の方のビビットなライフヒストリーが提出されていて、確かに日本のために有益な本には違いないと、私も思ったのでした。 繰り返しますが、本書は名著であり希望の書です。では、ハンセン病回復者に絶望を読み取らねば気が済まない私は、回復者の方の幸せを許すことのできない、保守的な頭の硬い人間でしょうか?
  • 2025年10月25日
    歳月
    歳月
    茨木のり子さんの詩には一貫した、スタイル、があって、それでどんな時も茨木さんは涼しげです。僕は、本詩集においても、決して彼女のスタイルは崩れていない、として読みました。逆に言うと、その涼しげな眼差しの後ろに、どれだけ情け深い茨木さんが隠れているのか、と想像しないわけにはいかないのです。 冒頭の作品「五月」では、  (前略)  夜が更けるしんしんの音に耳を立て  あけがたにすこし眠る  陽がのぼって  のろのろと身を起し  すこし水を飲む  樹が風に  ゆれている とあります。 ここでは、どこまでも冴え渡る茨木さんの神経が、樹と風とは、つまりこの通常世界からは、異世界に紛れ込んだように、私には思えます。この作品世界には茨木さん一人しかいない。しかし、同時に、揺れる樹から何かメッセージを受け取っているようにも感じられます。いつもの世界が、いつもの世界じゃなくなっているようです。 そんな世界でも、茨城さんは茨城さん流に愛します。その、彼女の流儀を彼女が捨てないところ、あるいは捨てられないところに、私は深く、胸を打たれました。 私は思うのですが、愛に関しては、それぞれの愛し方があって、それをあくまで尊重することが、周りの人間には求められているのではないでしょうか。少なくとも、茨城さん流の愛について、とやかくは決して言いたくないと、本詩集を読んで、私は思いました。
  • 2025年10月19日
    点滴ポール 生き抜くという旗印
    大きな世界で生きているなあ、と岩崎航さんの感受性に胸を打たれました。一人の人間の大きさというのは、無限なんだなあ、と思ったのです。 私は筋ジストロフィーという病気をほとんど知らないのですが、岩崎さんが一個の、自立した大人であることは、本書を通じてわかりました。 私が良いなと思った五行詩を、いくつか紹介したいと思います。  何処でもない  此処に  咲いている  花を  摘みにいく  校庭の  桜吹雪が  痛かった  ただ黙って  空を見ていた  空白と思われた  時も  意味がある  僕の  構図 上の三つの詩は、いずれも岩崎さんの言葉で書かれていると、私は感じます。言葉が遠くなくて、岩崎さんの手で掴まれた言葉のように感じるのです。出発点があくまでも岩崎さんの心にあって、でも決して卑近ではありません。 人間の心は遠くを求めるものだと思います。でも著者は自己の手の届く範囲を生きているようです。空想を自己に許さない、とも言えると思います。私も彼のように、あくまで自分の目や耳で、毎日に接して行きたいと思いました。 本書は、若松英輔さんの書籍で知りました。若松さんは、本当の目利きだなあと思います。
  • 2025年10月19日
    医者の僕にハンセン病が教えてくれたこと
    目から鱗の、良書でした。こういう掘り出し物みたいな本があるから、読書はやめられません。ただ私には、この本の半分でも理解できる力はないのですが。 京都大学医学部に関わる誰かが、本書を書かなくてはならなかった。そういう書籍です。本書を読んで、ハンセン病を勉強する人には、光田健輔という名前よりも、小笠原登という名前の方が大切だなと、思いました。 本書で非常に重要な点は、ハンセン病患者の隔離自体は、やむを得ない場合があると、はっきり述べているところです。ノルウェー式の隔離とハワイ式の隔離があると、隔離にも種類があることを教えられました。 ただ、ハンセン病自体は恐ろしい病気ではないと、つまり通院治療が可能であるとも述べてもいて、医者としての冷静な判断が光っています。 繰り返しますが、京大の小笠原登がいたからこそ、現代の我々も、近代日本が犯した絶海隔離という過ちを批判できるのです。結局、熊本判決も、戦前日本の隔離政策を過ちだとは認めていません。でも、小笠原登の存在が、私たちの良心を目覚めさせてくれるのです。 また、現代世界の中では、ハンセン病の研究は地球規模で考える時代になってきていることも、教えてもらいました。
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