

花木コヘレト
@qohelet
下手の横好きで、詩が好きです。ハンセン病文学に関心があります。
- 2026年1月6日
読み終わった図書館本サークルという言葉は、戦前からあったそうです。それで、本書も、冒頭はフェミニズムの論理に言及するものの、戦前のサークルやグループを考察するところから、本題は始まります。 それで、本題は、戦前は、共産主義芸術家の政治の集合体を研究して、戦後は、鶴見俊輔さんのサークル論を研究する、というものです。 参考とする論理は、ベルクソンのものと、プラグマティズムのものと、あとはテンニースや田辺元のものです。要するに、グループやサークルや共同体などは、開かれつつ閉じて、閉じつつ開かれているもので、そこで大事なのは、楕円だよ、という話だと、私は理解しました。 楕円というのは、中心が2点あることで、この楕円は花田清輝の、「復興期の精神」の楕円なのですが、楕円なら弁証法が可能だよ、ということです。中心が一点の真円だと、全体主義になりかねないよ、ということです。だから著者は最後で、サークルのリーダーは二人(以上?)がいいですね、と言っています。サークルやグループの中心が一点より多くなり、円が歪むという、私達の生活実践と近いものになるからです(と私は思いました)。 開かれるということと、閉じるということ。それが社会に存在する上での、サークルについての、ヒントになると、思いました。 - 2026年1月4日
袖口の動物杉本真維子読み終わった図書館本詩第一の読後感としては、とても面白かったです。杉本先生はとにかくご自身の言葉を使っていらっしゃっているように感じられ、なのでとても読みやすく、休日一日で読み終えられました。 面白いと書いたのは、「果て」の「ぬああああ」という一行と、「やさしいか」の「ねえ耳かして/死んで二度と生まれてくるな」の二行に、私は大笑いしてしまいました。私には、詩人が優しく感じられましたが、それはともかく、作者の言葉への誠実な態度は、紛れもなく真率なものであり、私は一本取られた、と兜を脱がざるを得ませんでした。 真率な態度とは、本詩集においては、「笑う」の、「黒い背がいっしんに屈み/ばらばらの顔を丁寧に並べていくと笑う」の二行に、まず現れているもの、と感じました。つまり、私は、ばらばらの顔とは、詩人のモンタージュだと読んだのですが、己の顔に出会ったとき、誰しもが笑わざるを得ないものだと、深く納得させられたのです。 ただ、やはり、女性の詩人は注意深く受け取らなくてはならなくて、「貨物」の冒頭、「知らない女に、喉の皮を鋏の先でちょっと切られた/血はあまり出なかったが、ふと友情のようなものに気づいた」という二行は、私には悩ましく感じられました。多分、半分以上の男性には、この二行の感覚は理解し難いものではないでしょうか?説明し難いのですが、悪意のようなものから始まる友情というものが、男性からだと見てあるのか?私には疑問に思われるからです。 もちろん、芸術がちんぷんかんぷんの私に、詩集のほとんどは不可思議なものに映るのは、当然ですが、そんな私にも、本詩集は、快く読むことができたのでした。 - 2026年1月4日
読書会の教室田中佳祐,竹田信弥読み終わった図書館本読書会今年の初めて読み終わった本です。今年は読書会を主催したいので、とても参考になりました。 というのも、私が参加している読書会とは、全く考え方が違う、読書会像が提示されていたからです。 本書においては、ファシリテーションや司会進行が、非常に重要視されています。でも、私が参加している読書会(1回40人程度)は、基本的に司会やタイムキーパーは、ほとんど参加者に丸投げされていて、主催者は全体の時間やチーム分けそれを取り仕切るだけです。もちろん、会の取り仕切りだけでも、忙しそうに立ち働いているのは、目に映るのですが。 でも、本書の、特に後半部においては、司会に、テクストの自立性を尊重すること結構求められていて、これは課題本形式の読書会をメインに取り扱っているからだとは思ったのですが、それが私には印象的でした。 それで、私の参加している読書会がなぜゆるくて、本書が想定している読書会がなぜカチッとしているかというと、それは本書の執筆者たちが、本を売る立場により近いからだと、感じました。つまり、私が感じたのは、本書は、対価の支払われるべき、物質としての、一冊の本というものを、とてもクローズアップしている、ということです。 これに対して、私の参加している読書会、あるいは私自身は、読書「体験」というものに重きを置いてるように感じました。なので、本書が、金額の発生する物質としての本、あるいはテクストそのものに接近するのに対して、私(たち)側は、それを受け取った人間、あるいはその「体験」や感情に接近しているという、違いがあるのだな、と思いました。 簡単に言えば、私(たち)は、ファシリテーションの必要性を疑っているのですが、本書は、本というものが持つ秩序を明らかにするためには、ファシリテーションが必要である、と考えているようでした。 こういう違いが、とても勉強になりました。私は全然、まだ読書会というものを知らないな、と思うことができました。 とにかく、参加者が読書体験を、目をキラキラさせながら発信できる、そんな読書会を作りたいと思いました。 - 2025年12月31日
闇を光に近藤宏一読み終わった図書館本ハンセン病私がもし編集者になれたら、こんな本を作りたい。そういう本です。2025年の、読み納めの本として、最適の本でした。 読んでいて、何度も、電車の中で、泣きました。そして、クラッシック音楽を聴きたいと、心から思いました。こんなに泣いたハンセン病の本は、新編志樹逸馬詩集以来、久しぶりです。近藤さんの言葉には、読者の心を未来へと向ける、とてつもない力強さがあります。 近藤さんの眼差しは、読者の方なんか、全然向いていません。全く気持ちいいです。近藤さんは、青い鳥楽団で、何が表現できるか、そして、楽団の表現力を、どこまで高めることができるか、そして、ハンセン病患者であるということは、音楽の中においてどんなことなのか、ただそれを追求していらっしゃいます。 この本の中には、人間についての哲学的考察などは、一切ありません。この本の中には、あるいは近藤さんの中には、そんな抽象的な思考が入る余地など、まるでないのです。 あるのはただ、ハンセン病患者として、毎日を生きるために必要な物事は何であるか、ということの追求と、自分たちの音楽の完成度を高めるためには、何が不足しているか、ということへの省察と、音楽が人生に与えてくれる、莫大なよろこびを、全身で享受するという、深い知恵があるばかり、であります。 私たちは、本書を読み終えて、本書の筆者が果たして本当にハンセン病患者かと問い、そして何よりも本当に肢体不自由の全盲の人間かと問い、そしてその問いをそのまま180度回転させて、己に向けての問いとして屹立させて、そしてその問いに打ち破れ、仰向けに倒れれば、本書を十全に読み尽くしたことになると、私は信ずるものであります。 - 2025年12月27日
3・11以後とキリスト教荒井献・本田哲郎・高橋哲哉読み終わった図書館本キリスト教東日本大震災私にとっては、抜き差しならない問いを、はらんでいる書籍です。まるで鏡に映った自己を見るようで、読めて本当に良かったです。 簡単にいうと、贖罪論をキャンセルする逃げ道は、確保されているかもしれないのだな、と小さく安心できたところに、本書の、私にとっての良さがありました。 これを、高橋哲也先生は、神的暴力という言葉を使って、生きているということは、すなわち息することを根本的に許されているのだ、と語っています。つまり、逆に言って、イエスは死への論理である贖罪論を、きっと用意はしていないだろう、という信頼に重きを置こう、ということでした。これが、読んでいて、非常に通りが良かったです。 ただ、メモ程度にはなりますが、ヨハネ書の9章にある、生まれつきの盲人を癒す、「神の業がこの人に現れるためである」を、検討する所まで、突っ込んで欲しかったです。これも、病を負った人への慰めの言葉として、よく引用されるからです。ただ、私の感触としては、ここにも、representationの気持ち悪さが、表出している気がして、気持ち悪いからです。 それと、贖罪論を回避できて、安心できるのは素晴らしいことですが、じゃあ逆に、自分が誰のことも犠牲にしないで生きられるかというと、これも不可能だろうと、正直思います。だから、本書のスタンスは、編集の方も含めて、贖罪論を回避しようという流れでしたが、あらゆる人間が抱える、生きることへの怯えを、どう解消すれば良いのかは、わからないままでした。 あと、本田哲郎先生が、とても実践的な言葉を紡がれていたのが、本書の土台となっているように感じられて、本として温かさを感じられたのと、荒井献先生が「パウロは自由からの逃避を戒めていた」と仰っていたことが、臆病な私には、非常に有益な見解だなと、思われました。 震災に、どんな意味を与えれば、私たちの心が落ち着くのか、百人百様なんだなと、思いました。 - 2025年12月26日
キリスト教講義山本芳久,若松英輔読み終わった図書館本キリスト教あの若松英輔さんが、聞き手に回っている、というだけで、山本芳久さんとの共著である本書の、面白さが伝わるのではないでしょうか? それに、とにかく、本書の裏テーマと思えるほど、近代批判が本書では繰り返されています。近代から、天使や死者がいなくなったり、霊性が薄れつつあることに、警鐘を鳴らしています。 また、これも近代批判ではありますが、対談の最後半で、若松さんが「貧しさを取り戻そう」と仰っていて、これは本当にその通りだと、感激しました。若松さんは「貧しさ」を、自分が神に埋めてもらわなければならない、欠如を抱えた存在であることの自己認識、というように解説してくださいました。この、どうしようもない欠落を、自己の中で見つめた時、祈りが、半自動的に成立するのだと、私は思うから、感激しました。 もちろん、この場合の貧しさとは、お金をいくら持っているか、あるいは持っていないか、という話ではありません。普段の生活から、あるいは他人の指摘などから浮かび上がる、自己の中の欠如に、気づくか、気づかないか、という話だと思います。私としては、私たちの中に、この欠如が立ち現れてくる時に、絶対者も同時に、まざまざと立ち現れてくるように、思います。 そして、もっと言うと、逆に、自己の空虚を、感じながらも、それを十分に見つめられなかった時、私たちは悪に転落するのだとも思います。埋められない空虚や欠如というものは、誰にでもあることだと思います。だから、その時の、神に祈れるか祈れないかが、大きな分岐点なのだろう、と思います。 そしてそこにこそ、私たちの自由意志が、つまり、神へと向き直れるか否かが、試されるのであろう、と私は思います。 山本芳久さんは、本書が、入門書でも概説書でもないと、繰り返し読者に諭しています。私たちは、本書に、ただこうべを垂れて、聖句に打たれるだけで、良いのではないか、とも思います。 - 2025年12月25日
バトラー入門藤高和輝フェミニズム読み終わった図書館本藤高和輝先生を、とある詩人の読書会(東京芸大で今年開催された)で、ゲストでいらっしゃっていたのを、拝見したことがあります。それで、私はフェミニズムに関心を持って、本書を読みました。 多分、私は本書の3割も分かっていないと思いますが、どうやら本書は、藤高先生が大学の先生だからか、学部生を読者の大きな念頭に置いて、書かれているようです。ですから、かなり噛み砕いて、アメリカのフェミニズムの小さな歴史も含めて、バトラーの『ジェンダー・トラブル』について解説されています。会社員の私でも、3日で読み通せたのは、先生が懇切丁寧である、おかげだと思います。 また、本書で先生は、バトラーにとても寄り添っています。先生に言わせれば、本書はファンブックのようなものだそうです。ただ、本書の中で、一番受け取らなければならないな、と私が思ったのは、バトラーの言葉ではなくて、クレンショーの「インターセクショナリティ」という概念でした。 つまり、差別というものは、複数でcrossするものなんだ、という理解です。つまり、簡単にいうと、人は一度差別される立場に身を置くと、その沼から抜け出せなくなるのが、むしろ常態なんだ、ということです。だから、私たちは、他人の人格を尊重するように、常に心がけなければならないのだ、と思いました。 つまり、抑圧の犯人は、一人男性だけとも、決められないようです。もちろん限定的な意味ではありますが、私たちのほとんどが、共犯的な差別主義者として生きている、ということだと思います。国籍や人種、年齢性別などによって、差別が膨大にcross するということは、もはやそういうことでしょう。 だから、これは逆説的に、シス・ヘテロ・男も、「結局、俺は差別主義だからフェミニズムなんか知っても無駄」とは言わないで良い、ということだと思います。ほとんど誰もが差別主義者なのだから、シス・ヘテロ・男(である私)も、むしろ積極的にフェミニズムに関与して良いんだな、と思いました。これが、私が得た、本書の一番の収穫でした。 ただ、大事なことなので、メモ程度ですが、もう一つ付け加えておきたいと思います。 それは、本書で強調されている、ジェンダーと生物学の切り離しです。ジェンダーが不連続であるということは、「倒錯」によるエロティシズムへ直結するように書かれていましたが、正直刺激が強すぎるように、私には思われました。 ジェンダーの不連続性は、現代社会の規範における「倒錯」だと思いますが、それがエロティシズムに直結するのは、もちろん私にも分かります。つまらない例えですが、俗に言う「ギャップ萌え」とパラレルに考えられるからです。 でも、これは私たちが生物学と切り離されてもなお、生と性が不毛ではないという、私たち人間の怪奇な現実に根差した感覚と思います。 もちろんシス・ヘテロ・男女でも、人間はすべからく性的に不毛です。しかし、本書において、またLGBTQにおいては、その性が、不必要なくらいに盛り上がりを見せるように、私には映ります。 もっと落ち着いた性を求めるLGBTQの方々もいるはずだと、私には思われるのですが、フェミニズムの本を読むと、燃え上がる生命や性を感じて、もう少し穏当に話が進むといいのにな、とは私には思われるのでした。 本書が労作であり、サービス精神に溢れた、親切な新書であることは、間違いないと思います。 - 2025年12月23日
トランスジェンダー入門周司あきら,高井ゆと里トランスジェンダー読み終わった図書館本破壊力抜群の本でした。私の中の固定観念がどんどん壊されていきました。 とにかく、私が本書から受け取ったことは、「その人の性自認を尊重しよう」、そして「その人自身ですら性自認が困難なら、それも尊重しよう」という2点に集約されます。 それと、本書の裏テーマと思うのですが、私が心底驚いたのは、男というものも、女というものも、性自認を尊重する限りなら、素直に信じて良いのだ、ということでした。つまり、本書の例えで言えば、「女の子(あるいは男の子)集まって、と声をかけられた時に、自分が呼ばれた、と感じられる心」、それは肯定されてかまわないんだな、ということに驚きました。性自認の尊重において、男というもの、女というもの、あるいはどちらにも当てはまらないということ、それが尊重されるなら、それが本当の男であり、本当の女であり、あるいは本当のどちらでもない、ということだと思いました。 ですから、本書の要点とはまるで違う話になりますが、上記の意味において、人間存在にとっては、性別というのは、ふるさとのようなものだな、と思いました。トランスジェンダーを知ることは、あるいはトランスジェンダーを経験するということは、性別の自己認識という、人間存在の土台が揺さぶられることですが、その結果として、土台が崩れた先に、仮にXジェンダーという謎が私たちを待っていたとしても、その謎がふるさととして機能してくれるのではないかと、私は希望的に感じました。 これはハイデガーの名言、存在は不安の上にある、という言葉を思い起こさせますが、私たち一人一人は、本当は、性自認の不可能性という大地に、立っているのではないかと、そしてその時に安心立命するためには、性別という謎を、きっと、おおらかに肯定できるかどうかが、かかっていると思いました。 本書の真の目的は、人類99%のシスジェンダーの、安定した性自認を崩壊させるところに、あるのではないかと、そしてその崩壊を通して、私たちが知っているつもりになっている性別が、実は未知なるものである、と驚かせられるところにあるのではないかと、そう感じされられたところで、あります。 (20251223修正、ご指摘ありがとうございます) - 2025年12月21日
アウグスティヌス 「心」の哲学者出村和彦読み終わった図書館本キリスト教易しいのか難しいのかよく分からない本でした。 「三位一体」も「神の国・地の国」も、「マニ教駁論」もほとんど中身はわかりませんでした。難しいところは、サラッと流されて書かれている感じでした。 なので、本書が一番言いたいのは、アウグスティヌスが「心」を大切にした、ということなんだな、と私は思いました。本書では、イザヤ書の「道を踏み外した者たちよ、心に立ち返れ」(46・8)が引用されていましたが、この引用部分の「心」の部分が、本書の一番言いたいことなんだと、私は理解しました。 アウグスティヌスの教説は、ほとんどわかりませんでしたが、彼の人生の旅程は、本書は迫真に迫っていました 。特に、彼がキリスト教に回心しようと葛藤しているところは、読んでいて胸がギューっと掴まれるようでした。 また、「あなたの命じるものを与えたまえ、あなたの欲するものを命じたまえ」というキーフレーズも紹介されていて、つまり、自分には神の恩寵がなければ何もはじめられないんだと、半分くらいしかわかっていませんが、印象に残りました。 もう少し、アウグスティヌスの教説について、噛み砕いて解説して欲しかったな、というのが、キリスト教初心者としての、正直な感想です。 - 2025年12月21日
キリストと性岡田温司読み終わった図書館本キリスト教イエスに救いを求める立場としては、本書をそのまま受け入れるわけにはいかないです。でも、本書のような、異端の紹介本を、肯定するか否定するかと言ったら、肯定するほかないと思います。必ず誰かがそれにより縋っていたからです。 ただ、ユダにしろ、マリア様にしろ、その取り上げ方は一面的だなあと思いました。たとえば、ユダの裏切りは、聖書を読むものなら大抵のものは、自分自身を投影させて心苦しむものですし、それをわざわざ、ユダに栄光あれ、と声高に叫ばなくても良いと思います。皆が皆、ユダを心に抱えて生きていると、私は思うからです。 マリア様にしてもそうです。男は(女も)すべからく女性から生まれたものとして、男は女性性を尊ばなければならないものですが、これもかと言って、イエスを女性性として捉えるところまではいかなくても、十分救いの余地は残されていると思います。 でも、こういう風俗的、土着的な信仰も、やはり尊ばなければならないところがあると思います。必ず誰かが救われていると思うからです。ただ、これらの土着信仰をそれぞれ大真面目に捉えていたら、今度は身がもたなくなると思います。 ですから、私としては、筆者の浩瀚な知識に舌を巻きましたが、やはり、マイノリティの叫びと、正統の教えは、バランス良く摂取すればいいのだなと、結論を得ました。 留保付きではありますが、キリスト教への視野が広がる、好著だと思います。 - 2025年12月17日
宗教のきほん 「愛」の思想史山本芳久読み終わったギリシャ哲学図書館本キリスト教プラトン、アリストテレス、旧約聖書、新約聖書、ベネディクト一六世、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、と錚々たる顔ぶれの「愛」についての言説を、ポイントを絞って紹介してくれています。 読むこと自体なら、そんなに難しくなくて、会社員の私にも二日で読めました。でも、書いてあることは、何度か読んで、ちゃんと身につけなくちゃいけないことだな、とは思いました。 筆者が、カトリックのクリスチャンだから当たり前ですが、やっぱり、ギリシャ哲学とキリスト教の「愛」の差が、本書の一番の「段差」かな、と思います。この本は別に、ギリシャとローマの差異を明らかにすることを目指した本じゃないですけれど。 プラトンの愛エロースもアリストテレスの愛フィリアも、人間同士の愛なんですよね。でも、キリスト教の愛アガペーには、この世界の創造主としての神様が入ってくる。キリスト教の場合は、自己愛でも隣人愛でも、それよりも先行して、まずは私たち一人ひとりにおける、神との愛の結合が強調されます。 だから、キリスト教の方が、人間がより個人として見られるんです。人間一人ひとりが、まず神と対面をして個人となり、それから他者との交際に移るからです。だから、それぞれ一人一人の愛には、必ず神様の愛がくっついてきて、そういう意味で、私たちは神の愛の伝達者として、存在するんだなあ、と思いました。 これは、受け取る人によって、嫌だと思う人もいれば、逆に神の愛に包まれて安心する、という人もいると思います。 最初に書きましたけれど、本書のメインとして紹介されるのは、ほとんどがキリスト教の愛についてです。キリスト教の愛も、たくさん種類があるんだなあと、感心します。特に、トマス・アクィナスの部分については、筆者の専門なので、とても読み応えがあります。僕は著者のファンなので、そういう意味では、推します。 愛というキーワードに関心がある人は、パラっとめくるだけめくってみても、良いんじゃないかなと思います。 - 2025年12月15日
トマス・アクィナス山本芳久読み終わった図書館本キリスト教人生が変わりました。すごい一冊です。 読んでいる間、ずっとパスカルの『パンセ』を私は思い出していました。とにかく論理が、突然には飛躍しない、常識的に進められていく、という点で類似点を感じました。 けれど『パンセ』みたいな「皮肉」は一切なしで、とても読んでいて安心できます。もちろんかなり、特に神秘についての解説箇所などは、難しいですが、読んでいるだけで癒されるような(でも理解しなきゃダメだと思いますが笑)、そういう本でした。 読んでいて癒されるというのは、まずは、「親和性による認識」という概念に出会ったときに、感じました。勉強をして理解できる世界もあるけれど、経験とかで理解できる世界もあります。こういう、「理解」=「認識」が、学力不足の人にも、開かれているということに、とても勇気が与えられました。 次は、とにかく「自己愛」についてです。どうやらトマスは、自己愛を隣人愛よりも優先しても良いと考えていた、というか、少なくとも自己愛をかなり積極的に擁護しているように、私は理解しました。つまり、神の愛が第一に現前するのは、自己に対してであり、つまり、この自分を愛さなければ、神からの愛を損なってしまいかねない、ということだと、理解しました。 つまり、他者との「一致」も必要だけれど、まずは自分という「一」、「一性」、これを満たすことが必要だ、と書いてあり、これは本当に私の人生が変わりました。今まで、世の中を生きるということは、まずは協調性が求められる、と私は考えていました。しかし、トマスの教えによればそうではありません。協調性を持つためには、むしろまずは自己の「一」、「一性」を満たさなければならない、と書いてあるように思えました。これは論理的に頼もしいばかりでなく、利己主義という自己批判の言葉を、自分から追い出すこともできる、大きな考え方だと思います。 つまり、私たちにとっては、まず、神様の愛を自己という場で実現することが重要なのであり、もちろん自己愛よりも神への愛こそ優先されるのですが、隣人愛を実現するためには、神への愛と自己愛を通してこそだということだと、理解しました。つまり、隣人愛あるいは協調性には、神への愛と自己愛をこそ、前提としているという、これも言われてみれば常識的なことが、書かれているのでありました。 最後に、アダムの原罪という事件を、幸福な過ち、と本書では理解されていることに、非常に感銘を受けました。もちろん既に、聖書には、過ちの大きいところにこそ神の愛も大きい、という趣旨のことが書かれていますが、アダムの原罪があったからこそ、人類はそれを超える大きな一歩を踏み出せたのだ、という考え方に、まるで過ちの多い私自身も、同時に救われているのではないかと、感じられるのでありました。 - 2025年12月8日
パウロ青野太潮読み終わった図書館本キリスト教もしあなたが、プロテスタントの教説を受容できる方だったら、読んでおいて損はないと、強く、推します。 つまり、イエスの十字架を、贖罪説から「十字架の逆説」へと、著者が大きくシフトさせているからです。この「十字架の逆説」は、確かに信仰義認論と相性がよく(というか贖罪説が信仰義認論と相性が悪過ぎるのですが)、私にはとても新鮮に響きました。 「十字架の逆説」とは、簡単に言えば、十字架におけるイエスの存立位置を、可能なだけ思い切り引き下げることです。「すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(一コリ1・23)としてです。つまり、私たちは、あられもなく殺されてしまったみじめな十字架のイエスを見、そこに弱さと愚かさを感じ、けれど同時に神の栄光をも見ます。 イエスが十字架に掛かってまで、弱さと愚かさを象徴したということは、つまり極めて単純に、イエス・キリストが私たち一人一人の弱さと愚かさと等しくなり、そして神がそれを肯定している、ということだと私は思いました。そこにおいて、私たちの弱さと愚かさは十字架のイエスとつながっています。弱さと愚かさとは、神が大きく肯定する、私たちに与えられたある種の力であり、才能であり、財産なのだと思いました。 著者は繰り返し、パウロにとってイエスは十字架にかけられたままであったと、繰り返します。また著者は、イエスは十字架上で、絶望していた、とまで書いています。絶望の死といえば、必然的にユダが思い出されますが、つまり、神はイエスをそこまで突き落としていた、と私は解釈しました。イエスがそこまで引き下げられた理由は、やはり、ユダを救うためであり、またユダよりも愚かかもしれない私たちが、私たちの弱さや愚かさを、イエス・キリストとして再発見するためだと、私は思います。 パウロにとってそうだったように、私たちにとってもまた、イエスは十字架に掛けられていると、私は思います。「十字架の逆説」は、私たちの前に、十字架のイエスを突きつけてきます。弱くみじめなイエスを、突きつけてきます。そして、そのイエスを信じることで、私たちは私たち自身を十字架に掛け、結果、私たちはみじめになり、私たちの弱さと愚かさを、私たち自身に露呈させることになります。 著者は本書の最後で「神は、自らの足りなさと弱さを知る者をこそ義として肯定する」、「われわれの希望は唯一そこに存在する」と述べています。私も、何の力も持たない人間として、強くそう思います。 つまり、私なら、私の弱さと愚かさ、普段は私を苦しめることにか寄与しない、私の弱点たちこそ、真の私の力なのだと思います。これは山上の説教で、明らかすぎるほどに明らかにされていることだと思います。あふれるほどの貧しさや悲しさに耐えて、逆に貧しさや悲しさから教わる姿勢を持つときに、私たちは大いなる力を、手にすることができるのだと、私は思います。本書の「逆説」は、それを教えてくれたのだと思います。 - 2025年12月2日
図書館本「寒風」のみハンセン病「寒風」のみ読みました。北條民雄の読書会のためです。なので感想は簡単に。 島田等が『病棄て』の中で「寒風」を非難していて、つまり川端の視線は、マジョリティ側からしか北條(谷沢)を見ていない、という批判です。「寒風」を読んで、確かに島田の批判は当たっている、と思いました。川端は北條が生きていられたのは、「国家の恩恵と篤志家の慈悲」(p202)だと書いていて、これは確かにNGです。いかに文学として「寒風」が成功していようといなかろうとです。 ただ、川端はハンセン病をよく知っている、とも思いました。防護服を着ていますが、北條の遺骸と対面して、つまり、ハンセン病が弱い伝染病であると知って、その記録を言語化しています。それでもこの短編がNGであることには変わりませんが。 それでも、「寒風」は、生きるということの重さを、ずしりと読者に負わせることには、成功していると思います。物語の最終場面で、看護師が靴下を履かずに走って、そのくるぶしあたりが寒さで赤く光っていて、それが筆者に思わず涙を流させようとしました。このくるぶしの赤さは、生きている証拠に他なりませんが、これはハンセン病患者の中にも、宿っている赤さであり、光であるでしょう。私たち人間がすべからく病んでいることの、告発であるとも、思いました。 - 2025年12月1日
みな、やっとの思いで坂をのぼる永野三智読み終わった図書館本水俣病とにかく耳が痛い本です。つまり、水俣病問題を、全く知らなかった自分が、加害者(であり当事者)と同じであることを突きつけられる本です。 本書の中で、「水俣病は教科書の中だけではない」という趣旨の言葉が繰り返されるのですが、本書を読めば、その通りだと観念するしかなくなります。つまり、自分がいかに無知であったかということにです。水俣病は、裁判結果としては「最終解決」していながら、実際はまだ終息しておらず、苦しんでいる人、未認定の人がたくさんいることが、本書からわかります。というより、まだ水俣病が続いていることに、本書の出版根拠があるのでしょう。現在形で、公害に苦しんでいる方が、国内にいるということは、そしてそれを今まで自分が知らなかったということは、二重の衝撃であります。 ですから、本書は、その理性的な文章にも関わらず、強い力でもって読者の胸をぐらぐらと揺らします。本書を読んで、私は生活態度を改めなくてはならないなと、思いました。社会人として、何が求められているのか?を、社会の構成員として、自覚しないわけにはいかないからです。水俣病は、社会システムの結び目における社会問題(もっと言えば犯罪)であるのですから、社会の一員である私も、自動的に加害者であり、また被害者であることを免れ得ないからです。 別の衝撃だったのは、水俣市周辺においては、いまだに水俣病がタブーとされているということです。なぜなら、地域住民の間で、差別する/される、水俣病に認定される/されなかった、の複雑な関係があったからのようです。しかし、そういう感覚は、匿名的で抽象的な都市部に住む私のような人間には、わりかし想像がしづらいところがあります。だから、タブーの中で患者支援を長年続けている、一般財団法人水俣病センター相思社(著者の勤務先)は、一体どんな組織なのだろうかと、関心が高まるところでもありました。 話は戻って、本書を読んで私は、無知を克服するために、もっと社会問題に関心を持とうと思いました。しかし、もっと言うと、もっと根本的に、自分の生活態度が問われているように思われました。今自宅で読書している自分が、見えないけれど、必ずどこかにいる水俣病(患者)とつながっているということ、そういう急速な接近を感じました。比喩として、隣人が水俣病であるような錯覚、それに今まで気づかなかったことへの嘆息を、覚えたのでした。 耳を閉じてしまえば届かない呻き、本書から受け取った苦しみの声を、しっかり胸にしまって、わずかでもその声に応えていく生活を、構築したいなと思いました。 - 2025年11月30日
チッソは私であった緒方正人読み終わった図書館本水俣病本書の内容が内容なので、ちょっと頭がまとまらず、自由に書かせていただこうと思います。 私はハンセン病について、初心者として少しずつ調べている者なので、まず、ハンセン病の歴史の中で、水俣病における緒方正人さんみたいな人はいたのかなあ?と疑問に思いました。もちろん、すぐ解答は浮かびます。「もしいても重監房送りでこの世にはいないね」というものです。重監房とは草津の療養所の厳しい獄舎のことです。 しかし、ハンセン病患者なも「チッソは私であった」というような天啓を、覚えた者がいます。明石海人という歌人で、彼は「ハンセン病は天刑であり、天啓であった」と、考えました。 二人に共通するのは、ハンセン病と水俣病を、自分ごととして受け入れる、という積極性です。緒方さんは、本書を読む限りあまり健康を害してはおられないようですが、お父様を奪われているという面では、身体をもぎ取られるような思いをされたことかと思います。 また、明石の方は、全盲ということもありますが、短歌からは、むしろ彼の穏やかな性格が伝わってきます。そういう意味でも、ラジカルな緒方さんとは、逆を行くようです。 しかし、私は本書を読んで、ずっとハンセン病が重なって見えていました。こんなとんでもない話があっていいのか?という絶望です。水俣病でも、ハンセン病でも、被害者/病者は、健康を侵されると同時に、人間性をも剥奪されるのです。そして、一度剥奪された人間性は、回復することがほとんどできないのです。 これは、紙をくしゃくしゃに丸めたら、どんなに手で皺を伸ばそうと、元の状態には戻らないことに、似ています。緒方さんは、途中で裁判を辞められたようですが、それは彼の人間性が回復したからではありません。むしろ逆で、裁判をいかに戦っても、自分の人間性や、また海山川の尊厳の回復は不可能であることを悟って、辞めたのです。 もちろん私は、水俣病とハンセン病を抽象して、それぞれの固有性を捨象したいのではありません。これは理解してください。しかし、人間性が傷つけられた者は、それを回復させるのは至難の業であることが、共通することも、まぎれもない事実だと思います。 私には、緒方さんの、魂への直観を肯定することはできても、決して彼と彼の家族の苦しみ、仲間の苦しみ、魚や草木の叫びを十分に理解することはできません。ただ、ラジカルと言われるほどに、狂気的とも一面思われる彼の主張を、ハンセン病とは全く違う痛みとして、新しい胸の傷として受け入れようと、心の涙を流すことは、できると思います。それは絶望の対価として。 - 2025年11月29日
差別とハンセン病畑谷史代読み終わった図書館本ハンセン病痛恨の極み、という書籍です。まったく私はハンセン病のことについて知らなかったと、思い知らされました。そういう意味においてです。 本書の一番の特徴は、本拠地を長野に置いていることです。著者が信濃毎日新聞の記者だからです。こういう、地方独自の目線の書籍は、都市部に住んでいる人間にとっても非常にありがたいです。長野においても、かつては(今も?)ハンセン病がどれだけ恐れられていたのか、その肌感覚がリアルに伝わってきます。非常にシビアな内容です。 次に、細かい所ですが、行政の人間に取材ができていること。著者は、長野県衛生部の方とコンタクトをとっています。こういう文章は、新聞記者の方でないと拾ってこれないと思います。当事者の著書や、学者の本もいいですが、記者の本の良いのは、なんといっても取材力が社会全体に広がっていること。取材力が高いです。 そして、やはり取材力に関係することですが、二番目の大きな目玉は、「ハンセン病問題に関する検証会議」の副座長の内田博文さんにインタビューが、載っていることです。これは、法律家としての、裁判に関する肌感覚が伝わってきます。熊本裁判では傍聴席側にいた方ですが、法律で戦う側の人としての意見が聞けるのが貴重です。 そして、本書のものすごい力は、最後の三つ目です。先に挙げた検証会議の報告書、1500ページに及ぶもの、の要点がコンパクトにまとめられています。僕は、ハンセン病の本をあれこれ読んできたつもりですが、検証会議の報告書にまともに取り組んだ本は読んだことがなかったです。ここでは、いかに国側が、患者や回復者の弱点につけ込んで、隔離政策を継続してきたかが、浮き彫りになっています。国は、治療を人質にしながら、隔離を当然ごととしてきたのです。決して許されることではありません。そして、胎児のホルマリン漬けの標本の存在の事実については、私は目を白黒させながら読みました。胎児の両眼が抉り出された状態の、胎児の標本があったそうです。これは医療行為では決してありません。人間としての守るべきものを踏み外した、蛮行であります。 自分がいかにハンセン病について無知であったか。それを知らしめてくれる、とてもとても有意義な新書です。読めて本当によかったです。 - 2025年11月27日
同じ月を見あげて新澤克憲読み終わった図書館本障害者こんなに魅力的な本も、少ないと思います。つまり、1.人間を見つめていること、2.描写が的確なこと、3.ユーモアに富んでいること、4.嘘が少ないこと、のこれらであります。 本書は、精神障害者とb型作業所施設長の触れ合いが、中心です。筆者の新澤さんは、良い意味でアマチュア的であり、要所はプロとして振る舞うことのできる、バランスの取れた方のようです。 本書の要点は、何よりも、精神障害者が毎日を送る上での知恵が、惜しげなく描かれている所に、あると思います。簡単に言えば、精神障害者が、己や社会とどう向き合って生きているか、これを体感するには、もってこいの書物だと言えると思います。 つまり、彼らは、彼らの奥に人間の知恵を隠しています。「幻聴妄想カルタ」は、その知恵の最もピュアな発露だと思います。簡単に言えば、人間は狂気(決定的に誤った認識)と共に生きることが、最も安全なのです。私は、狂気こそが私たちのふるさとだと思います。精神障害者は狂気と触れ合いながら生きています。私たちも、私たちの半身に埋め込まれた狂気を、体に受け止めることが必要であるのでは、ないでしょうか? 私は、この本の読者が精神病になった方がいい、と言いたいのではありません。精神疾患に罹ったら、医者に掛かることを、薬物治療にかかることを勧めるものであります。けれど、私たち読者一人ひとりの中に眠っている狂気を慈しむことも、勧めるものでもあります。 本書を読み、登場する障がい者と、そして忘れてはならない筆者である新澤さんの、いくつかの狂気に身を浸すことで、失われた私たちのカケラにまどろみのなかで再会することを、私は勧めるものであります。 - 2025年11月26日
読み終わった図書館本ハンセン病絶望を感じた本でした。 絶望というのは、この本が出たのが1985年で、今から40年前なのですが、収められている論文はもっと前に初出していて、だいたい50年くらい前の言説が、本書には収められています。絶望というのは、ハンセン病の論点は、この本が出ている時点で、もう出揃っていた、ということがわかることです。 本書の112ページに、 「「所得的援助によるだけでは解決のできぬ場合の非所得的援助」にたいすらニードを、患者運動はどのように自覚し、補償しようとしてきたか。経済的所得の保障や医療要求にらくらべ、それはたち遅れていたことは否めない。」 とありますが、この文章が書かれてから50年間、多分事態はほとんど進まないまま、時間が過ぎてきたのではないでしょうか? つまり、事態を省略して言えば、ハンセン病患者の地域参加は、不完全なまま、ハンセン病問題が終わりを告げようとしている、ということです。つまり、これは、光田健輔氏の、隔離政策が完遂したことを意味していると思います。簡単に言って、革命は起きなかったわけです。そして、大切なことは、反革命は患者が望んでいたことでもあったということだと思います。患者が外に出たがらなかったからです。ですから、光田健輔氏の生み出した制度は現在も生きていることになります。50年前から、問題点は出揃っていたのにも関わらずです。 光田健輔氏の制度を患者も受け入れてきたわけだと思います。つまり、彼の制度は有効に機能して来たと、私たちは反面認めざるを得ない所に立たされているのだと思います。 つまり、彼の制度は、既成事実として成立しています。既成事実として成立しているということは、これは法律的な意味においては、正しさに、正統性につながりかねません、というか繋がっているでしょう。 本書を読むことによって、私たち非ハンセン病患者は、あくまでも私たちの現実が、ハンセン病患者の呪いを受けていることであることを、深く自覚するべきだと思います。そういう視線に立ってみれば、国立ハンセン病資料館の存在意義など、あくまで史跡程度にしか過ぎません。あの建物は、私たちがハンセン病患者の自由を奪い続けて来た証左としてのみ、残存価値があるのだと思います。 - 2025年11月25日
イエス伝若松英輔まだ読んでる
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