
徒然
@La_Souffrance
1900年1月1日

これはペンです
円城塔
以下は読みながら書いたメモ
「叔父は文字だ。文字通り。」っていう書き出しがいい
最初に思ったのは、「人間が言葉を出力する機械と何が違うのか」と同じようなテーマなのかということ。
最初は、知識の切り貼りっぽい印象をうけた。「簡単にかけてしまうと思わないかね」を体現してるのかと思った。
あるいはこれらの知識を手掛かりに、興味を持って調べ始める人がいるかもしれないから、このように知識を提示してるのかもと思った。
叔父が研究そのものの比喩で、叔父と姪の子供が叔父というのは、この小説を手掛かりに何かに興味を持って研究し始めた人なのかもしれないと思った。
研究において再現性は必須だけど、同じ手順で行っても同じ結果となることはない。小説も思考も研究も。ずっと同じ手順で同じ物質が作られていたのに、急に物質の旋光が変わってしまうこともあるし。
研究ってこうだよなってぼんやり思った。系統に連なる、家族みたいなもの。家族のどこに自分が位置しているのか。
次の短編が叔父さんの話だったの良かった。立体的になった。
ゴダールやモンタージュを思い出す。
意味が通って文章になるわけじゃない。人間は意味のわからないものにも意味を見出せる。
もちろん、完全に意味の通らない文章にすることも可能。この辺ウィトゲンシュタインの本見返すこと。
思索みたいな本だ。
ふと、翻訳の仕方の話の可能性に思い至る。
この本の解釈が人それぞれのように、あらゆる物事を自分の中でどのように翻訳するのかにかかっている。
同じ世界を誰とも共有できない悲しみがある。翻訳は人それぞれだから。
それこそ、この本の中で書かれている記憶のやり方や、本が自分の体によって変わるということもそう。
「ここには僕ひとりしかいない。僕しかいないよ」
現実では妻は他人として現れ、捉えられない。反対に、夢の中では捉えられる。それは自分の中に取り込んでるから。現実では他人なので捉えられない。
中国語の部屋の部屋になるということがわからなかったが、後の短編で判明する。姪からみた叔父と叔父のイメージが一致しなかったが、ここでは一致していたように思う。
姪にとっての叔父と、叔父の父にとっての母。
叔父にとっての父。
書き連ねていってもその人そのものにはならない。
世界が各々の翻訳で変わる
同じものを見て同じものを見れない類の孤独
ここでは孤独とは書かれない


