いるかれもん "「誰でもよいあなた」へ 投壜..." 2025年12月14日

「誰でもよいあなた」へ 投壜通信
かつてインターネット上で親交のあった文学の大学院生が勧めてくれた本。もう1年以上前に閉店した、行きつけの本屋さんで買ったことを思い出した。なぜか、この本を手に取ったときの光景を今でも思い出せる。 「投壜通信」という言葉は初めて聞いた言葉だけれども、そうやら哲学などの分野でたびたび使われてきたモチーフらしい。 「難破しかけた船から海へと投げ込まれた壜は、砂浜でそれを拾い上げたひとを宛先としている。おそらく、投げたほうは拾った者のことを知らないだろうし、たまたま拾ったほうもなぜそれが私を名宛人としているのか明確に答えることはできないだろう。にもかかわらず、壜をを拾った者はその手紙がほかならぬ私へと呼びかけていることを感じ取ってしまう。まさに私が読まなければならない手紙として壜は拾われるのである。」(p.8) このように、誰でもないが、他ならぬ自分に当てられた言葉という意味で「誰でもよいあなたへ」ということ。この本は私たちにとって身近にある「誰でもよいあなた」へ宛てられた言葉について書かれている。(小説とか読んで、それがまるで自分に向けて書かれたものであるかのように感じたり、もっといえばそれが著者の意図とは関係なく自分にとって特別な意味を持ったりする経験とかがそれに当たるのかなと思った。) 哲学の本ということで、難しい部分もあるけれど、著者の実体験から出発して、エッセイとして書かれていて読んでいて心地よかった。色盲や発酵など、一見テーマと関係なさそうな切り口から、そこに秘められた投壜通信を見つけ出し、その価値を紐解いていく、そういう感じ。 私にとっては第3章「岸部のアーカイヴ」が何よりも愛おしい文章だった。端的に言えば、積読含め書物を保管するアーカイヴを投壜通信として肯定するものであった。積読やアーカイヴに対する著者の考え方が、自分がぼんやり思っていたことと重なりつつ、より明快にその在り方を肯定するものでなんか嬉しかった。「本を読みきることはできない」、そしてそれが投壜通信になるということは、本のもつ限りない可能性や魅力をよく表現しているように思う。 p.43 「アガンベンは『書斎の自画像』で「書斎=アトリエは潜勢力ー作家にとっては書く潜精力、画家や彫刻家にとっては描き彫る潜勢力ーのイメージである」とも述べているが、本や書類を集めて捨てないということは、現実に役に立つという狭隘な視野から解き放たれた可能性を存在させることを意味している。端的にいえば、蔵書やアーカイヴとは潜精力なのである。  投壜通信は、こうした潜勢力としての蔵書やアーカイヴがなければ起こりえない。言葉が記された本や紙片が残っていればこそ、あらんかぎりの時間と空間を隔てたところからであっても言葉は私の元に漂着することができる。(中略)アーカイヴがない世界では、こうした遠く隔たったコミュニケーションが著しく困難になってしまう。それゆえ、アーカイヴとは投壜通信の条件ともいえるものなのである。  アーカイブのない世界があるとしたら、それは岸辺を欠いた世界に等しい。船上から海へと投げ入れられた壜は、いつかどこかの岸辺に流れつくわけだが、もし岸辺そのものがなかったとしたらどうなるだろうか。壜は波間をあてどなく漂つづけ、多くは海の藻屑と化し、拾い上げられる確率は極めて低くなるにちがいない。岸辺は、いつか誰かがそれを手に取るまで壜を保存するアーカイヴなのであり、打ち上げられた壜はそこで誰でもよいあなたが現れるのを待っている。個人の蔵書であれ図書館であれ、誰にも把握しきれない潜勢力としてそこに存在する書物は、ある日ふとした瞬間に「あなた」へと届き、壜を拾い上げて読んだ当人を変化させる。書架から溢れて床に積み上がった本のなかには、いまは届かなくとも、いつの日かまさにこの私へと届く壜があるかもしれない。その可能性を信じることは、私自身の変容を肯定することなのである。だから今日も私は、岸辺のアーカイブを広げるべく書店へと向かうのだ。」  投壜通信は海に投げ出された壜に閉じ込められた言葉である。だから、投げた人と受け取る人の間には海があり、距離を持つ。この本を読んでいると、庭とかアーカイヴとかが登場するが、それらが二人の間の海のように思えてくる。その海というものは何か明確な方向性を持っておらず、自由な余白のように思える。そうした、余白が、受け取る言葉を自分のものとするための可能性というか、自分を重ねる、自分を書き込むことができるのかなとか、そんなイメージが湧いた。
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