
ジクロロ
@jirowcrew
2025年12月21日

読んでる
「この生命のいとなみ、青く輝いて、暗く翳って、小さな黄色い苔のひと塊りを掛けて、あれは何をもとめているのだろう。鶏たちを誘い寄せる、穀粒が静かに散る、その中をいきなり、時の鼓動のように、この生命は流れる、それは誰に語りかけているのだろう。深みへもぐりこんで、ただときおり、たえまなき流れの中の、わずか数秒の隙間から迸り、あとは死んだように静まる、この言葉なきいとなみ、それはいったい何なのだろう。彼女はもの言わぬ目でそれを見つめた、そして物たちのことを考えずに、物たちを肌で感じとった。すべてがもはや口では言い表わせなくなったとき、両手が額の上におかれる、ただそんなふうに。」
(『愛の完成』p.92)
「流れ」が意味するものは自然、言葉に先立つ感覚の世界。
流れに身を委ねる、それは言葉としては快楽の側に働くのが一般的なのに、著者はそれを「不快」の側に表現を振る。
読んでいると、「流される」。
文章を読むためには、言葉の流れに乗らざるをえない。それが頭では不愉快に感じても、身体がそうならざるをえなくなる主人公とともに、流されざるをえなくなる。それを「愛」というべきか、「頽廃」というべきか。
読後に何とも言えない身体的な気だるさが残る、これまで経験したことのない、肌感覚の読書体験。