
一年とぼける
@firstareethe
2025年12月22日
同時代ゲーム
大江健三郎
感想
百年の孤独を読んだ上で読む事をおすすめします。出来れば、百年の孤独だけでなくバルガス=リョサによるガルシア・マルケス批評『ガルシア・マルケス論 神殺しの物語』の百年の孤独評を読み、百年の孤独がいかに「全体小説」としての色を成し得ているかも理解しているとより読みやすくなるかもしれません。
ただ、純粋に難解、というよりは難読な作品である事には変わりなく、特に序盤はほぼ怪文書と呼べる文字列が続き、正直面白いか否か以前に投げ出したくなる人も少なくないとも思います。
読み通した者としての感想は、価値を見出せば理解が逃げる。理解を示せば価値が遠のくといった、非常に捩れた強度にさらされる作品。
読むという行為に対して、挑戦的というか、むしろ拒否に近い文章を読まされるという特異さでは類を見ないレベルと思う。自分はこの作品を「読める」側だったが、むしろ「読めない」人の方が健全な感性だと思わされた。文章とその意味理解のバランスが取れた読み方では意味不明なだけで、バランスの土台が壊れた読み方でしか読み進められないような作品だった。
その上で、まさに「読めない」人にこそ価値が出る作品でもあり、しかし読めない事によってその価値が真に感知されないという、何ともおすすめもし難い、しかしその価値に異議も申し立てられないという感想としても八方塞がりな作品と思わされた。
ぜひ読んでほしい、とも言い難いが、一人でも多くこの創作という呪いに僅かでも塗れてほしい。5ページだけでも、読んでみてほしい。
以下、長文。ご興味があれば
同時代ゲームにおいて何が一番印象に残ったかと言われれば、やはりその難読性がある。作品理解が難しかった、という意味ではなく、むしろ「難読」である必然な価値がある作品だったと感じさせられた。何故その様に感じられたか、百年の孤独を端緒に説明を試みたい。
バルガス=リョサの理解によれば、百年の孤独とは全体小説である。全体小説とは、社会や政治や個人のみならず、まさに世界そのものを「描き切る」という作品を指す。描く事ではなく、「描き切る」事、それによる世界の完全性そのものが全体小説の条件となる。
百年の孤独のその完全性の担保とは、詳らかな百年の歴史以上にその結末にある。予言書を「読む」という行為を通じ、完全に滅ぶマコンドはしかし、また「読まれる」事でしかその滅びを選べないという撞着を生み、その撞着は冒頭へと回帰し、物語という連鎖は連環となり、物語の終わりは同時に始まりとなる。その完全な閉鎖性をリョサは「全体小説」と称した。
また、マジックリアリズムと呼ばれるその手法もまたその連環性には寄与している。時間も場所も生死も超越させるそれは、百年の孤独に限れば技芸というより必然からの手法だろう。
つまり、百年の孤独とは、描く事によって全体小説となった作品ではなく、全てを描く完全性への衝動によって編まれた作品なのである。
同時代ゲームは百年の孤独の影響下にある作品なのか。一般的にはその様に理解されている。しかしそれは、両作の神話的語りやマジックリアリズム的描写の類似からその様に解されているのではないか。
個人的にはそれには異を唱えたい。確かに大江は百年の孤独によって喚起されただろう。しかしそれは、技法的側面を主としたものではなく、百年の孤独という作品構造を求めるだけの衝動性と、それを可能とする表象への夢を見、喚起されたのではないだろうか。
衝動性とは何か。百年の孤独におけるその衝動性とは、(語り手としては信用出来ないが)ガルシア・マルケス本人や、多くの評でも触れられている通りラテンアメリカという「現実」にあると考えられる。外部としての現実を描き切るという衝動性によって、百年の孤独は生まれた。
では、同時代ゲームではその衝動性は何処から生まれたのか。恐らく、大江自身の「原始」にそれを求めたのではないだろうか。神話的舞台となる故郷「あわじ」。本人の弁により繰り返される「懐かしい」という言葉。神話的主人公となる「壊す人」という名称も「懐かしい」という字との類似から来たのではないか、と作品内外で述べている。原始に向かう、求めるという衝動性によって描かれた作品である、その様に解したい。
百年の孤独によって喚起、もしくはベクトルを得た大江の衝動性は、しかし百年の孤独とは逆に外部ではなく自らの最奥へとその源を得た。自らの最奥を「描き切る」という衝動は、安易に加工した原風景としての提示を拒否し、抑圧や社会化を経る事でしか認知できない領域を認知以前の状態のまま提示する事でしか解消されなかった。
難読性の原因はここにあると思う。自己ですら認識するには崩壊を伴う領域を志向する「遡行」は、恐らく大江にすらテキストとしての理解を許さない試みとなる。読者という他者がその意味をテキストから見出す事は出来ない。
同時代ゲームとは、テキストから意味を取り出す作品というより、「描かれた」という痕跡からその価値を見出す作品なのである。
難読である、という評価は本質としてこの作品の価値を毀損しない。上記に示した通り、難読になる必然がある。しかしながら、難読たるこの作品に価値があるのか、という問いには答え難い。価値を見出した先に何の評価が下せるのかと言えば、そこには崩壊の痕跡と共感も許されない他者の原始の書き写ししかない。
原始への「遡行」は、過去への憧憬と解されるかもしれないが、本作における原始は過去を意味しない。「同時代ゲーム」というタイトルはそれを示唆する。
本作は四次元的感覚を志向する。「時間」は可逆として立ち現れ、過去・現在・未来は溶解し、屹立する時に屹立する、等値の現象としてそれぞれが表れる。
つまり「遡行」とは、それそのものの象徴行為であり、過去に限定された行為とはならない。
それは現在(当時)の大江の構造圧に「原始」もまた影響されるというメタ構造も帯び、作中で描かれる原始とは一般的なイメージにおけるピュアやイノセントとは程遠いものとなっている。個人的にはそれを真摯な向き合いと評価したい。
原始社会として描かれる村=国家=小宇宙における反天皇制の気運や、(原始)共産主義への撞着的畏怖。またガルシア・マルケス類型な女性表象を過去への憧憬と解するのは難しい。自己の最奥という領域においても、社会構造圧の影響は及ぶ事を示していると捉えたい。
注意として、社会構造圧の影響を大江が認知出来ていたのかを読み取る事は出来ない。しかし、この難読で意味不明な作品においても、その影響を感じられるという事実は重要だと思う。
書きたい事は大体書けた。強いて言えば物語のちょうど中盤から可読性が上がる様に感じる事、それは「遡行」という行為がちょうど中盤で終わり、今度は下りに入る事で原始が社会化された為ではないか、みたいな事も書きたかったが、そこまで書く事もないかな、と思える程度には個人的に満足できた。
改めて、おすすめはし難い作品ではありますが、数ページでも読む価値のある作品だと思うので、チラッとでも目に入れて貰えればと思います。

