
一年とぼける
@firstareethe
2025年12月29日

読み終わった
感想
シリーズ名「文化学の越境」、タイトル、また北条勝貴氏の序論におけるデュルケーム社会学から始まる「ケガレ」の概説や同和団体内における「ケガレ」の再配置に関わる論争の紹介等から学術横断的であったり社会・政治的な視線を含んでいるであろう各論考への期待を持ちながら読み始めた。
のだが、門馬幸夫『「穢れ」とする・されることの含意と差別の地政学』以外の各論考は平安時代を中心とした王朝文化における「ケガレ・ハライ」に終始しており、序論で期待された「ケガレ」の相対化や再配置の視点は弱く、むしろ定置とされた「ケガレ・ハライ」の詳説となっていた。
各論考における専門的価値は確かに高いのだろうとは思うが、専門外への接続性もリベラルアーツとしての越境性も低く、タイトルや序論からの想定との落差に戸惑いながらの読書だった。門馬氏の論考は唯一その期待に応える、一読の価値が確かにある論考ではあったが、その一編の為に読もうとも言いづらく、なんともはや。
せめてタイトルが『古代日本におけるケガレ・ハライ』の様なものならこんな感想にはならなかったと思うのですが…。
また、橋本裕之『祓う・浄める・鎮める』内において、祭事というケガレ・ハライをまさに象徴する事象において「穢多」がその一役を担っていたという事実の提示が行われているが、その事実が即座に自論に利用され、切り捨てられるという態度には強い不快感を持った。序論において「歴史学は(中略)総じて言葉への意識は浅く、ケガレはア・プリオリに不浄として扱われている。」と指摘している態度そのものであり、序論で提示された視座は一体何だったのかと疑義を呈さざるを得ない。ケガレをア・プリオリとして扱っているというのは殆どの論考に共通したものとはいえ。
差別に関心があるという観点からは総じて不満の多い読書となってしまったが、差別については置いておいて平安時代を中心とした専門書としてならば価値のある一冊とは言えるのではないだろうか。それがタイトルに資する評価とは思わないが。




