
ぴー
@tmr_kr
2026年1月2日

かつて読んだ
鷺沢萠の「海の鳥、空の魚」を20数年ぶりに読み返した。女子大学生が主人公の短編を読んだ。
彼女が講義の始まるまでの時間を持て余して入ったお店で、欲しくもないマニキュアを3つも買い、道すがらマニキュアの小瓶が袋の中でぶつかりあってカチン、カチンと音を立てる……というところを鮮明に覚えていた。何度も読んだもんなぁと思う。
なのに、その前後のところはまーーったく覚えていなかった。どういうことだ…?何度も読んだのになぁと思う。
まあでも、記憶とか読書ってそういうものだと思う。小説の全てを覚えるなんて不可能だもん。だけど、この記憶のまだらっぷりが、まるで、人生に対する記憶のまだらっぷりとまったく同じだと思って、ちょっと呆れた。
必要のないマニキュアを複数買い、その小瓶が歩くたびにカチン、カチン、と音を立てることは、ほとんど自分自身の記憶であるように思われる。実際にはマニキュアを一度に複数買ったことなんてないのに。
どうしてこの場面が自分の中に刻まれたのか、自分にもわからない。でも、理由なんてわからなくてもいい。
ある小説のある場面に捉えられ、飲み込まれる。人生でなにかのきっかけに思い出しては、何度もそこを訪れてしまう。たとえ手のひらにその本がなくても。
それこそが小説を読む意味であって、それ以外の理由は私には知ったことか、とすら思う。
