moenohon "新しき鍵: 私の幸福論" 2026年1月8日

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@reading0104
2026年1月8日
新しき鍵: 私の幸福論
由香理さん、私たち人間はどのくらい人間を知っているでしょう。一枚の紙でさえ裏表があります。まして人間から生まれたわれわれ人間は、実に多面的なものを数多く秘めて生きています。 私たちは他の人を指して、寛容な人だとか、短気な人だとか簡単に申しますけれど、それではあまりにも人間を知らな過ぎると言えるかも知れません。 私は、自分の今までの半生をふり返って考える時、もし私の人生に十何年も結核で療養したという経験や、癌を手術したという体験がなかったとしたら、そのほうがはるかに幸せであったとは思えないのです。 でも人間は弱い者ですから、出来ることなら、柔い魂の幼ない頃に、辛い経験は、ほんのちょっぴりであって欲しいと思います。次に、ちょっぴりであって欲しかった三浦の辛い経験を書いてみましょうか。 僅か十五歳の少年には荷の重過ぎる仕事でした。でも三浦はくるくるとよく働き、ソロバンもたちまち上達し、その上、字もうまくて仕事が早く、誰からも重宝がられる毎日となりました。 三浦がそのままでいたら、三浦はあるいは単なる職美主義者に終ったかも知れません。 「耽美主義者」!それは美をのみ追求し、下手をすると、人間嫌いになって、己れが孤独を楽しむ傾向に陥りちなのです。これは大きな利己主義を生むことにもなりかねません。それに陥らずにすんだのは、由香理さん、なぜだと思います? それはね、三浦が幼なくして父との死別、母との生別、そして貧しさによる生活苦を知ったからだと思うのです。三浦は親の愛を充分に受けることがなかったのです。欲しいものを遠慮なく買い求めることのできなかった境遇の中で、三浦は大自然に目を出め、その自然に親しみつつ育ちました。 物事の価値を判断するのに、由香理さん、あなたは「真」「善」「美」の触れを基準としますか。真理ですか。人に優しくする善ですか。それとも快い存在であるところの美ですか。人間は誰しも美に心惹かれて生きているように、私には思われます。 美は直観的なものです。見た瞬間に五官に反応するものです。善には心の痛みが伴います。常に人に親切に あろうとして出来なかった悔を抱いて歩むのが、善を求める人にとって逃れることのできないものなのです。 真理を求めることは、更に困難な道を伴います。真理への道は、そう簡単に入りこめないものなのです。私だって、自分の一日を省みますと、美しいものを知らず知らずに求めている自分に気づきます。そのことに由香理さん、小父さまは、少年の日に早くも気づいていたのです。美が自分の心を捉える限り、下手をすると堕落の端に誘われていく。そのことに鋭く気づかせてくれたのが、三浦の母が三浦に与えてくれた、かの聖書でした。 彼の日常が、どれほど自律的で、己れを打ち叩きつつ生きているかをご存じないからだと思います。 ただ好ましいということで、愛しているなどと言えるのかと三浦は思い知らされたのでしょう。 <愛は寛容であり、情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない…・・・) 愛とはなんと大いなる意志と力を要するものであろう。右のうち一事でも自分の身についたものがあろうか。ねたみ、高ぶり、いらだち、恨みを抱く等々、すべて愛に反することばかりが、自分の真の姿ではないか、多分三浦はそう思って、長時間神の前に祈ったのではないでしょうか。 <愛を追い求めなさい>とは、自分を愛して欲しい、自分に何かをして欲しい、自分に金や物を増し加えて欲しい、ということとはちがいます。自分の持っているものを人に上げたいということなのです。三浦は私に時々言います。 「愛とは人を幸せにする意志と聞いたことがある」と。 由香理さん、三浦は実に神から大きな恵みを受けました。何にでも優れていること、宿御の驚いこと、まじめなこと、忍耐強いことなどなど、人よりも多くいただいていると私は思います。 しかし、それらの恵みに開って大きな恵みと言えるのは、三浦が貧しい生立ちであったことです。
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