DN/HP "狂人日記" 2026年1月6日

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2026年1月6日
狂人日記
狂人日記
色川武大
裏表紙にあるような「現代人の意識に通底する絶対的な孤絶」が分かったような気がした。この日記の書き手が幻聴する「世間というものの底にいつも波打っているリズム」も感じたことがあるような気がしてきた。その孤独なリズムは、今もこの本を読んでいるときにも流れていた、いや、半ば意識して流していた阿部薫の演奏にもある、と思い込み始めている。 いちばん好きな《JAZZ BED》も最近手に入れた《NORD》もどちらもデュオによる演奏だけれど、阿部のサックスの音は日記や小説を書くように孤独(演奏相手がいる、ということとは別の意味で)だ。これは《NORD》のライナーノーツで読んだ、彼が小説を書こうとした後にサックスを吹き始めた、というエピソードの影響かもしれないけれど、そんな風に感じている。 色川武大の小説では「百」という短編の文体、そこから生まれるフロウが大好きだったのだけど、この小説ではそこにあった、惹かれたあっけらかんとしたような軽やかさは感じられなかった。代わりあるのは、哀しみを湛えた暗く響いてくるリズムで。それは単純に心地よいだけのものではないけれど、それでも読み進めてしまう魅力がある。そんな感覚は、激しく速くて哀しい、楽しいとは言い難い阿部の演奏にも感じている魅力でもあって。 「自分のことを他の誰にも委ねる意思がない以上、自分の不安定な実感を抱えているより仕方がない」人間はその孤独で不安定な実感を日記(小説)に書き音楽として演奏するのかもしれない。あるいはそれらが出来ないときには、この日記の書き手のように「死を選ぶ」ことにもなるのかもしれない。 それでも「死んでやろうじゃない。死ぬよりほかに道はなしということだ。それで、自然死がよろしい。今日から、喰わぬ。」と書かれるとき、そこには悲観やあきらめ以外、以上のもの、当てつけでは無い反抗や闘争、もしかしたら文章や音楽でするようなある種の「表現」とも言えるようなものがあるようにも思えてくる。のは良くないのかもしれないけれないし、他人の死を勝手に評価してしまうべきでも無いけれど、少なくとも小説の上ではそんな風にも思えたのだった。 そんな小説を読むことで誰もがもつ「絶対的な孤絶」を、そこから発せられる世界に流れるリズムを改めて実感してしまったとき、その実感を誰とも共有出来ず「誰にも委ね」られず、日記や小説を書くことも音楽にして演奏することもなく表現するすべを持たず、ましてや、「死を選ぶ」ことも未だ出来ない人間はどうするべきなのだろうか。その孤独、「不安定な実感」をただ抱えていることしか出来ないのだろうか。ああ、それが人生か。とか考え始めてしまうと暗澹たる気持ちにもなりはじめるけれど、同時に素晴らしい小説を読んだ、最高の音楽を聴いている、という感動や喜び(は他人に共有したい感情だ)もたしかに感じながらこんな文章を書いているから、今のところは全然OKなんだけど。多分。カバーアートに使われている有馬忠士の画集も欲しい、と物欲もあるしね。
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