
あんどん書房
@andn
2026年1月7日

超楽器
高野裕子,
鷲田清一
読み終わった
京都コンサートホールの周年記念エッセイ集なのだが、鷲田清一編で三宅香帆、岸田繁という執筆陣に惹かれた。音楽と建築の観点で書かれた文章が主。
堀江敏幸「一度しかない出来事を繰り返すよろこび」はオーディオとコンサートホールの音響について。こういう繊細なテーマを表現するのがそりゃもう上手い。
“ながらくFM放送で親しみ、場内の音を想像しつづけてきた空間にはじめて腰を下ろしたとき、開演前のノイズのうつくしさに陶然となった。[…]すぐれた演奏の下地に、こういう空気の層が擦れ合うような音の網がひろがっていたのか。”(P34)
小説の一節みたい。
そして、そういったホールの音響は「演奏家や観客の、体温と呼吸の研磨」によって成長し、成熟してゆくものだともいう。
その違いを感じ取れるような繊細な感性がすごいと思う。
佐渡裕「第九から始まる心と街の復興」より。
“僕は、「第九」は決しておめでたい曲ではないと思っている。たとえば、有名な「歓喜の歌」が現れた後、男声合唱が厳しく「Seid umschlungen(抱き合いなさい)」と歌う箇所が出てくる。僕は、この歌詞が「抱き合いなさい、抱き合うことができなければ、この歓喜は手に入らないのですよ」ということを示唆していると解釈した。”
何となくおめでたニューイヤーで聴いてるだけではこういう鑑賞はできないだろうなぁ。知ることの大切さ。
三宅香帆「奏でるよりも聴くことで」にも興味深い話が出てくる。ピアノの上手さについて、
“「ピアノが上手い」を私なりに定義すると——自分の理想の音楽が脳内に存在しており、その理想が的確で、さらに現実でその理想に届くことができている状態——なのである。”(P49)
話はさらにそこから敷衍されて、才能とは理想をイメージできることだ…と三宅さんは書かれている。なるほどなぁ。自分にはあらゆる才能がねぇってことですね。。
岡田暁生さんも堀江さんと似たような趣旨のことを書かれている。
“ホールが「機能」ではなくて「文化」だとするなら、「古くなれば建て替えればいい」というわけにはいかない。重要なのはむしろ、古い寺社や教会と同じく、ホールが街並から切り取ることのできない風景の一部となるまで、それを熟成させることである。”(P58)
昨今のお金のない自治体にはなかなか厳しいところがあるとは思うけれど、理想はそうなのだろうなぁ。
世界の名だたるコンサートホールは19世紀末ごろのバブル&都市改造ブームの産物というのも初めて知った。
彬子女王「神々に届く音」は割と気軽で現代的なところもありつつ、尊敬語がものすごく多い上品な文章はさすがの皇室エッセイ。音楽の来歴としてちゃんと天岩戸神話に繋げていくところも、非常に完璧な一編だと感じる。
岸田繁「魔法の音楽」。ホールについてというお題に真正面から向き合った文章だ。
“私たちは音楽の船に乗ったまま甲板で海図を確認しながら、耳と心を微調整する。休憩時間はコンサートにとって大きな意味を持つのだ。”(P91)
休憩のあるような格式高いコンサート、ほとんど行ったことがないなぁ…。
交響曲を書いたことについて。
“私は元々ブルース・ギタリストであり、今もなおバンドマンでシンガー・ソングライターである。ただ、それ以前に私はあらゆるジャンルの、あらゆる地域の音楽を愛する駆け出しの作曲家だ。”(P95)
うーんかっこいい。
鷲田清一さんは「初源」というキーワードから始まる音楽の話。民族音楽学者・小泉文夫の「生活と音楽が分離してしまった」という言葉を引用しながら、それでも純化し突きつめられた「ふつう」の音楽と、流行歌や戯れ歌、歌謡など生活の音楽の間にある「ぶれ」こそが、音楽をたえず進化させてきたものだという。
山極寿一さんのゴリラの音楽の話から始まって鷲田さんの初源の音楽の話で終わる構成がいいなと思った。
鷲田さん、編者紹介で好きな楽器は「エレクトリック・ギター」と書かれている笑
本文書体:リュウミンオールド
装丁:大倉真一郎


