J.B. "ベンヤミン「複製技術時代の芸..." 2026年1月10日

J.B.
J.B.
@hermit_psyche
2026年1月10日
ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読
ヴァルター・ベンヤミンの1935年の論考 「複製技術時代の芸術作品」 を、単なる注釈ではなく理論的再構築として再提示する試みである。 原論文が20世紀文化理論の古典であることは広く認められるが(ポストモダン論の嚆矢とも評される)その思想的構造は平面的な要約では容易にとらえきれない。 多木は、この難解な論考を歴史的・知覚論的・政治的次元で読み直すための精密な道具を読者に提供する。  ベンヤミンの核心命題たるアウラの消失について、多木は単純化された芸術の価値低下ではなく、価値転換としてのアウラ概念を浮かび上がらせる。 アウラはただ希少性や独自性の問題ではなく、歴史的継起性(tradition)と儀礼性(ritual)に根差した意味作用の場でもあった。 機械的複製はこれを剥ぎ取るのではなく、知覚のモード自体を変容させるパラダイム転換として描かれる。  多木の精読は、ベンヤミンのアウラ概念を単なる感情的・伝統主義的懐古ではなく、知覚と歴史認識の転回点として理論化し直すことに成功している。 これにより原論文の意図が、我々の芸術理解そのものを問い直す根源的契機として立ち上がる。 本書の特筆すべき貢献は、知覚という概念をベンヤミン哲学の中心に据え直す試みである。 複製技術によって芸術が大衆に広がると、鑑賞行為は瞑想的・集中的な態度から、習慣的・分散的な受容へとシフトするというベンヤミンの洞察は、多木によって体系的に展開される。 映画や写真がもたらす知覚変革は、単なるメディア史的事実ではなく、認識論的な転回点として描かれる。  この観点は、原論文を芸術論に留めず、感性論・歴史論・政治哲学として再定位する枠組みを提供している。 すなわち、芸術を鑑賞する目は、単なる視覚機能ではなく、時代の力学に対して応答する感覚装置として再定義される。 多木は、ベンヤミンの分析が政治的次元へと連結することを鮮明に示す。 複製技術は単なる芸術の複製能力の拡大ではなく、大衆化・政治的動員の装置として機能しうる。 これにより、芸術は礼拝・儀礼から解放されるだけでなく、同時に政治的装置として再機能化される。  この点で、多木による読みは、アドルノとの対比やファシズムとの関係といった周辺的かつ重要な文脈を丁寧に扱うことで、ベンヤミンの洞察が現代のメディア史・政治史に有効な理論的道具であることを明らかにする。 これにより、原論文の現代性は単なる歴史的遺物ではなく、デジタル時代の政治・文化の理解に再応用可能な枠組みとなる。 多木は、映画という特異な複製技術の媒介物を通じて、鑑賞者の知覚・身体・触覚を論じる。 映画が単なる娯楽でなく、無意識的知覚の触発者として機能するという洞察は、視覚文化論を再構成する刺激的な提起である。  ここにおいて、映画は単なる新たな芸術形式ではなく、人間の知覚装置と社会的経験が絡み合う最前線として位置づけられている。 本書は、ベンヤミンのテクストを解説するだけでなく、その理論的可能性を先鋭化し、現代的課題との対話可能性を示した精読の試みである。 多木の読解は、原論文を断片的に引用する常套的な解説書とは一線を画し、ベンヤミン思想そのものを再構築する理論的プロジェクトとなっている。 読者は単にベンヤミンを理解するのではなく、その思考形式を現代的な批評装置として獲得する機会を得る。 この点で本書は、芸術論・文化論・政治哲学の学際的読者にとって長く参照されるべき精緻な理論書である。 
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