石坂わたる
@ishizakawataru
2025年8月25日

平静の祈り
あきた・のぶこ,
やすたか・としまさ,
Elizabeth Sifton
「何年かのちに、その頃まだ出来て十年にもならない小さな団体だったアルコホーリクス・アノニマス(AA〕も、わたしの父から許可を得て、その小さい祈りを定例会で使い始めた。
AAがいつどのようにして本文を簡略化したかをわたしは知らない。もしかすると最初から、ああだったのかもしれない。その版では、祈りは一人称単数、そして頭の部分が略されている。霊的には正しくても簡単ではない、変えられないことを平静に受け入れる恵み[grace to accept with serenity that which we camnot change ]を求めて祈る(praying for)という思想を省き、そのかわり変えられないことを受け入れる平静さ(serenity to accept what camnot bechanged)を得る[obtaining ]というもと単純な思想に焦点が絞られている。表現が変わったときに、わたしの父は好きにさせ、とやかく言わなかったが、気にはしていた。最終的にふたつの文章の間には大きな違いが数か所ある。
より重大なのはもうひとつの変更だ。二節目の変えるべきことを変える勇気 [courage to change what should be changed]がAAの表現では、単に変えられることを変える夢気[courage to change what can be changed ]となっている。
これには呆れる。何かを変えられるということが、それを変えるべきだ、に直結しはしない。そしてこの表現では、責務とする範囲が狭まる点がさらに重大である。変えられることを変える(to change what we can change)のでわたしたちがある時点でなんとか変えられそうだと思ったことしか指さない。しかし、変えるための力がわたしたちに足りないとしても、変えるべき(should be changed )状況は存在し、そういうときにこそ、この祈りが最も必要とされるのである。本文のこの変更は、難しいが強い思想を、陳腐で弱いものに引き下げている。こう薄めたことがこの祈りの一般受けにつながったのではないかと、わたしは思っている。
オリジナルの三部分からなる祈りに対してAAが付け加えた文節が、どこから来たのかはまったくわからないが、ともかくその内容と調子とはまったくニーバー的でない。しかし、わたしの父は自分の祈りに著作権をとるようなことを一度もしなかったから -ー祈りで儲けるなど彼には考えられなかったーー 不正確な引用や、著作者の誤認や、潤色があっても彼には対処できなかった。今までに本当に数え切れない人が、お父さんはこの件でしくじりましたねと、わたしにからかい半分、何の悪気もなく忠告してくれた。いかにもアメリカ人らしい、恥ずべきでない考えなのだろう。人が何らかの価値ある行為をしたら、それでお金を儲けるべきで、もしそうできたにもかかわらずやり損なったときは、膝を叩いて大笑いするのである。金の子牛を拝むことは疑う余地なき規範なのだ。