
たまのきゅうか
@yutomsm
2026年1月25日
李琴峰「紫陽花の散る街」はAIと生体デバイスの管理による超全体主義体制をイマジナリーフレンドとの会話で自己を隠匿して生存してきた同性愛の女性が主人公で、その点で『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』と接点があると思ったのだけど、やはりそこにあるのはある意味での他者の欠如かなと思って、意図してかどうかはわからないけど、たとえば主人公が男女四人で体制へ反抗するのは同性愛という「同質」(←本当に地の文にそう書かれている)性によって結ばれた集団だと抵抗なく書かれていたりする。
今の私の関心はぬいぐるみとしゃべるにしろイマジナリーフレンドとしゃべるにしろどうやってそのような行為が成立するのかということで、それって結構な特殊技能だと思うのだがその特殊さには立ち入らないで「この人にとっては当たり前のことなので」みたいに小説内で流されるとそれって一体何なん?という疑問が湧く。
ちなみに大前粟生『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』は傷つきやすくて傷つけることにも傷ついてしまう若者二人(七森と麦戸)の話で、三人称ながらもその傷つきやすい男の子(七森)の視点に「寄り添う」形で語られるのだが、傷ついて傷つけるのなんか当たり前だと考えるもう一人(白城)が出てくるのがかなり重要で、大事なところでこの人物の視点で語られることで、傷つきやすくて人を傷つけることにも傷ついてしまう若者のある意味で逆説的な他者の存在の薄さを批判的に見る視線が作品内にかすかに残されている。そこを読むかどうかで評価が変わる作品だと思う。