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たまのきゅうか
たまのきゅうか
@yutomsm
おるすばん
  • 2026年1月25日
    文學界 2026年 2月号
    李琴峰「紫陽花の散る街」はAIと生体デバイスの管理による超全体主義体制をイマジナリーフレンドとの会話で自己を隠匿して生存してきた同性愛の女性が主人公で、その点で『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』と接点があると思ったのだけど、やはりそこにあるのはある意味での他者の欠如かなと思って、意図してかどうかはわからないけど、たとえば主人公が男女四人で体制へ反抗するのは同性愛という「同質」(←本当に地の文にそう書かれている)性によって結ばれた集団だと抵抗なく書かれていたりする。 今の私の関心はぬいぐるみとしゃべるにしろイマジナリーフレンドとしゃべるにしろどうやってそのような行為が成立するのかということで、それって結構な特殊技能だと思うのだがその特殊さには立ち入らないで「この人にとっては当たり前のことなので」みたいに小説内で流されるとそれって一体何なん?という疑問が湧く。 ちなみに大前粟生『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』は傷つきやすくて傷つけることにも傷ついてしまう若者二人(七森と麦戸)の話で、三人称ながらもその傷つきやすい男の子(七森)の視点に「寄り添う」形で語られるのだが、傷ついて傷つけるのなんか当たり前だと考えるもう一人(白城)が出てくるのがかなり重要で、大事なところでこの人物の視点で語られることで、傷つきやすくて人を傷つけることにも傷ついてしまう若者のある意味で逆説的な他者の存在の薄さを批判的に見る視線が作品内にかすかに残されている。そこを読むかどうかで評価が変わる作品だと思う。
  • 2026年1月19日
    文學界 2026年 2月号
    上田岳大「美しい人」第二回 村上春樹っぽいなあと思いつつ読み進めたら最後に「やれやれ、と僕は思う」と出てきた。自覚的なのだと思う。 濱野ちひろ「回復について」 慢性的な暴力被害からの回復に関するエッセイ?ノンフィクション?著者自身の経験が関わる文章のジャンル分けは難しい。「書くことと愛されること。その両方があって私はようやく回復したのだと思う」。
  • 2026年1月10日
    すばる 2026年 2月号
    井戸川射子「大差螺旋のスケッチ」 長命者と短命者に分かれた世界というSF的設定での恋愛小説。全て一段落を一文で書くという実験的要素もある。「相手」とのほぼ完全に二人だけの関係を「きみ」の視点から書く。長命者だが気まぐれ刹那的な「相手」と短命者で一人との関係を望む「きみ」。散文詩的に文意の統制を緩めた長い一文で書かれ部分部分の意味の連結は追いにくいのだが、そのぶん音楽のように次の句次の句と読んでいく。 木村友祐「殺しの時代における都市型狩猟の観察」 害獣害虫駆除とハラスメントの生々しい描写があるから読めない人は読まない方がいいと思うけれど、都市にあって隠蔽されている、他者を殺して生きること、殺している「もの」を他者として見ること、殺されるのは私かもしれないことをスリリングに書いていておもしろかった。視点人物「小熊」が狩猟民族的な世界観に目覚めるラストはやや外付けの思想という印象ではあったが。桑野から狩猟民族のレクチャーを受けることが繋がっているのだけれど、むしろ桑野なしで小熊が内発的に目覚めたとしたら、より狂気的にはなるけれども話の強度がでたりはしないかしら。
  • 2025年12月31日
    小僧の神様 他十篇
    内的な倫理について。
  • 2025年12月26日
    Θの散歩
    Θの散歩
    思い出すことの深度。深さ浅さ。 深く下へ潜っていく中の横滑りと、次々に横滑りする中で深みに足を取られること。 記憶の逍遙にもいろいろある。 日々を記録することは思い出すことであり、思い出すという行為は下に下に深く潜ってたまに横滑りするだけでなく、次々と横滑りしてたまに深い穴に足を取られるという動きになることもある。垂直が優位な人もあれば水平が優位な人もいるということである。想起を原理にする小説家というと私は滝口悠生がぱっと浮かぶけれど、滝口悠生は深さがあって、だからこそ横滑りがアクセントになる。『Θの散歩』は深めずに横滑りが自然な形で続くほうが目立ち、だからこそ小さな深さや飛躍がアクセントになる。人間の深みに対してよりささやかで十分に緩衝帯をとったスタンスといったらいいか、それはある意味で距離を取るアプローチでもあって、間違って冷笑的ととられることすらあるかもしれないのだが決してそんなことはなく、滑っていく運動の日常性、表面の温かみ、些細な楽しさの中のわからなさが現れてくる。
  • 2025年12月23日
    新潮2026年1月号
    堀江敏幸「金を継ぐ」 p.246〈圭子さんは、とても穏やかなひとだ。笑みを浮かべ、こちらの目をまっすぐに見ながら、少し低めの声で語る。その声にはふしぎな砂粒が混ざっていて、言葉と表情のあいだの水にそれが沈み、聞いているこちらの耳の奥に朝露が降りたような湿り気がひろがる。〉
  • 2025年12月17日
    現代詩手帖 2026年 1月号
    井戸川射子「異聞・未明」 久谷雉「逆説」 石田諒「観察/詩変換」 小笠原鳥類「「海の歌」の試み、または、「変形菌のうた」の試み」 時里二郎「伎須美野Ⅲ」 水沢なお「粒子」 石松佳「李の指紋」 金井裕美子「沈黙」 カニエ・ナハ「肺」 小池昌代「水の輪」 平林敏彦「斜塔」 青野暦「馬、unaccompanied」 田中さとみ「donut land」 広瀬大志「絵日記」 マーサ・ナカムラ「十一人の遊ぶ蝋燭」 暁方ミセイ「心臓と海」 城戸朱理「長い夜」 笹本淙太郎「時と貫流」 蜂飼耳「十字路」
  • 2025年12月16日
    新潮2026年1月号
    東浩紀「書くことと壁」 市川沙央「良心的兵役拒否」市川さんは孤独な一人称視点がうまい。 岡田利規「小説を書く感情」 小山田浩子「からの旅」今の時代に外国にいることについて、日記的な何かを小説にするということ。 角田光代「二十年ぶりの休暇旅と世界的混雑」日本人の海外旅行者が減ったのは経済的な理由が大きいのでは? 斎藤真理子「アジアの母」差別を日記の中で考えることについて。小山田浩子さんの日記的小説との差異。 ヒコロヒー「おちょぼ口」死の自己決定のアイロニー。
  • 2025年12月15日
    新潮2026年1月号
    滝口悠生「ビバノンノン」 p.186〈俺の娘は、と美津烏は思う。このうどんに魅せられて、なんだかえらく独特な人生を歩みはじめたんだ。そう思うと、涙が出るわけではないものの、なにか梅が生まれてからここまでの時間や、その前に広がり伸びていく自分の生きてきた時間を思い、感慨深いものがあった。その広がりのびた時間の縁にかかったり、ひとによってはしっかり捏ね合わされるようにして、ここにいるひとたちみんなが自分の生きた時間と重なり、くっついている。〉
  • 2025年12月15日
    文学界 2026年 1月号
    古川真人「死者ではないのだから」。父が死んで母と子供たち(兄妹)で家の片付けをする。思い出話、会話の中で父は過去の人ではなくなっている。人物像と会話が素敵で好きでした。滝口悠生『死んでいない者』を連想する。
  • 2025年12月2日
    庭のぬし: 思い出す英語のことば
    p.8〈わたしと英語の出会いのことを思いめぐらすと、あのちいさな部屋のおおきなテーブルの上に手を置いたときのことが目に浮かびます。〉 詩人の書き出し。
  • 2025年11月28日
    若き詩人への手紙・若き女性への手紙
    p.50〈愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです。(中略)学習期はしかし常に長い、閉じ込められた時期であります。だから愛することも、まだまだ久しいあいだ、人生の奥深くに達するまでーー愛をなす人間にとって、孤独を、一層高度の、一層深化された孤独を意味します。(中略)愛することは個々の人間にとって、自ら成熟すること、自らの内部で何ものかになること、世界になること、相手のために自ら世界となることへの崇高な機因であり、それぞれの人間に対する一つの大きな法外な要求であり、彼を選び取り広大なものへと招くある物です。〉 孤独と愛。 このあとでリルケは、女性は身体的な負担が社会的にもかかることから人間的な成熟が男性よりも深い可能性について語っている。男性対女性の関係ではなく人間対人間として愛せよと言っている。
  • 2025年11月22日
    楡家の人びと(第1部)
    一部第二章「賞与式」と基一郎の半生とが重ねられながら、勢揃いする家族や登場人物の紹介、それぞれの参列の仕方、俗人性のあけすけなユーモア。一連の描写についていく著者の筆の豊かな共感性とスピード感。
  • 2025年11月21日
    楡家の人びと(第1部)
    一章後半。煉瓦塀を塗り直すのをサボっている職人たちの視点から院代・勝俣の視点へ、そしてまた職人たちの視点へ。職人の目から楡病院の人々が語られ、勝俣の目から楡病院の建物が語られる。虚飾と生命力に溢れた楡病院。素晴らしいシークエンス。
  • 2025年11月18日
    若き詩人への手紙・若き女性への手紙
    p.38-39〈実に実に正気に満ちた水が、古代の水道を伝って大都市の中に流れ入り、数々の広場の石の白い皿の上に踊り、ひろびろとした大きな水盤の中に拡がり、昼はさやさやと鳴り、夜はそのざわめきを高めるのですが、ここの夜は大きく、星々に満ち、風にやわらかです。それにまたここには庭園があります、忘れることのできない並木道や石段があります。ミケランジェロの考案になる石段、辷り落ちて行く水に型どって、ーーひろびろと傾きながら一段は一段と、波から波が生れるように造られた階段があります〉 リルケのローマ描写。
  • 2025年11月17日
    楡家の人びと(第1部)
    新潮文庫旧版で読んでいる。冒頭のシークエンスが大傑作。
  • 2025年11月17日
    田村隆一詩集
    田村隆一詩集
    やっぱり「立棺」がいいですね。
  • 2025年11月14日
    狭き門
    狭き門
    p.248〈夕闇は灰色の潮のようにさしてきて、一つ一つのものに迫り、一つ一つの物をおぼらせ、そして、それらのものは、影の中でよみがえり、低い声音で、過ぎ去った日のことを物語ってでもいるようだった。わたしは、ジュリエットがすっかり道具を運ばせてきている、かつてのアリサの部屋を思い浮かべていた。ジュリエットは、いま、わたしのほうへ顔を振り向けていた。その顔立ちも、もう見分けられなくなっていて、あるいは目を閉じているのではないか、はっきりしたことはわからなかった。とても美しく思われた。そして二人は何も言わずにじっと黙っていた。/「さあ!」と、とうとう彼女が言った。「目をさまさなければ……」〉
  • 2025年11月14日
    若き詩人への手紙・若き女性への手紙
    リルケはイロニーを避けるようにと言う。他者を風刺すること、真実を隠してわざと違うことを言うこと。それは自分の中の真の感情的体験の表現を弱らせてしまうのだと思う。
  • 2025年11月13日
    田村隆一詩集
    田村隆一詩集
    p.62〈詩人の感情を、そのうちなる感情の歴史にまで高め、それを発展せしめるものは、ルイースのいう「種子」ですが、それを発芽させ、成長させるものは、その詩人の内在的技術ーーつまりここでは雑多な経験をよりわけ、ひとつの秩序ある詩的経験にまで高めて行く知的感性的な能力を意味するのですがーーであり、詩人の体内から「詩」を外に押し出し、「一篇の詩」として開花せしめうるものは、その詩人の詩的技術(外在的技術といってもいいでしょう。詩人のうちなる詩を物質化する能力です)以外のなにものでもないからです。〉
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