
ジクロロ
@jirowcrew
2026年2月1日

小林秀雄全作品(2)
小林秀雄
読んでる
「人々がいろいろな品物(勿論人間も人間の残した仕事もこの品物の中へ這入る)に惚れ込むと、自分達の心の裡に、他人にはわからぬ秘密を育て上げるものだ。この秘密は愚かしさと共に棲み乍ら最も正しい事情を掴んでいるのを常とする。冷眼には秘密はない、秘密を育てる力はない、理智はいつも衛生に止まる。人間の心の豊富とは、ただただこの秘密の量である。
だが、人々はめいめいの秘密を、いやでも握り潰して了うのが世の定めであるらしい。歌とは、敗北を覚悟の上でのこの世の定め事への抗言に他ならぬ。ランボオ集 一巻が、どんなに美しいに満ちていようとも、所詮、この比類のない人物の蛻(もぬけ)の殻だ。
彼は死んだのだ。まさしく永久に。」
(『ランボオ Ⅱ』)
小林秀雄がここで言う「秘密」とは、彩り豊かな主観、つまり後天的偶然的な個性のことではないかと思われる。
品物により育て上げられたそれを、あたかも必然のように自分なりに展開するからこその「秘密」であり、それは「蛻の殻」にすぎない。
一級品ともてはやされたランボーの才能は、ランボー自身により「蛻の殻」として披露される。それが『地獄の季節』という作品であったということ。
「そして、彼は私に何を明かしてくれたのか。
ただ、夢をみるみじめさだ。だが、このみじめさは、如何にも鮮やかに明かしてくれた。私は、これ以上の事を彼に希いはしない、これ以上の教えに、私の心が堪えない事を私はよく知っている。以来、私は夢をにがい糧として僅かに生きて来たのかもしれないが、夢は、又、私を掠め、私を糧として逃げ去った。」
(同上)
小林秀雄は、ランボーのようにきっぱりと、「夢」を拭い去れないまま、「夢」から逃れられないまま、この文章の内側で彷徨する。それは自分だけの夢ではなかった。
ランボーにとって自身が詩人であったことが、「地獄の季節」であったという決定的な断言が、小林秀雄の生き方そのものを責め苛む。
「想えば愚かにも、私は彼(富永太郎)の夭折をずい分と助けた。そして今、私の頭にはまだ詩人という余計者を信ずる幻があるのかしらん。私は知らぬ。」
(同上)
「彼は死んだのだ。まさに永久に。」
ランボーという詩人の象徴的な死と、富永太郎の肉体的な死と。
「詩人の」と言われたら「夭折」という言葉が思い浮かぶ。
彼らの「品物」を「糧」に生き永らえるのが批評家であるとすれば、彼にできることといえば、それらの「品物」と命懸けの対話を続けること。そんな倫理観をもって創られた批評を、一般的に詩人を「余計者」とする社会(大衆)に売らなければならないという葛藤。
「「ああ、この不幸には屈託がないように」
(『堪忍』ランボー)
果てまで来た。
私は少しも悲しまぬ。
私は別れる。
別れを告げる人は、確かにいる。」
(同上)