1000 "国宝 下 花道篇" 1900年1月1日

1000
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1900年1月1日
国宝 下 花道篇
映画を見て、歌舞伎の沼に再度足を踏み入れた自分にとっては、まだ見たことのない歌舞伎の作品がたくさんあり、いつか観たい作品リストがかなりたくさん増えてとても勉強になった。 今年1月の大阪松竹座で、映画の国宝の演技指導もされていたという鴈治郎さんと壱太郎さんが出演されていた京鹿子娘道成寺を見たり、小説の中でも一豊が出演していた新春浅草歌舞伎へ行って、石橋物(相生獅子)や男女道成寺、藤娘を見られたのも、とてもタイムリーでよかった。 母が坂東玉三郎さんの舞台が大好きで、大学生の時に母と玉三郎さんの阿古屋を観たことがあるのだが、箏、三味線、胡弓がすべて生演奏だったこと、衣装の美しさ、すべてにおいて自分の中でかなり衝撃的な体験で、小説では阿古屋がキーとなる作品になっていたのも嬉しかった。 今年の新春浅草歌舞伎で、六世歌右衛門さんの型で藤娘を踊られていた中村莟玉さんが、指導を受けている先生から「どうしたいのか(何を表現したいのか)わからないから指導もできない」と言われたという話をしていて、私も学生時代にコンテンポラリーダンスをやっていた身なので「なぜ踊るのか、どう踊りたいのか」を問われるというのはとても難しい問いだな、と浅草から帰る帰り道でずっと考えてしまった。 美しく踊りたいというのはそれはそうなのだけれど、美しく踊るって何なのだろう。何が"美しい"なのだろう。 振付を自分で考えるのであれば、まだそれが自分の思考の開示として表現できるけれど、歌舞伎はまず性別が異なる人を"演じ"、そして振り付けもすでにあるものを踊るわけで。ありのままの自分自身ではないものを演じることを通して、自分の思想を表現するってすごくすごく難しいことだと思う。 そして、舞台というものは、踊っている自分自身を客席から見ることはできないわけじゃないですか。客席からみている私を含めた観客は、目の前にある美しい舞を、景色を、観ることができるし、それを美しいなぁと眺めることができるけれど、踊っている本人はそれができない。 映画の国宝を観た時、最後に喜久雄が観た景色は、実際の舞台の上から見た客席というわけではなくて、心象風景として喜久雄が見た"うつくしい景色"なのだろうなと思う。そして、舞踊においても演技においても「完成」や「正解」はなく、生きて舞台に立ちつづけるなかでは、常にそこを目指して試行錯誤を重ねていくのだろうし、そう思うとあれは死後の世界なのかなぁと思ったりした。 本の国宝を読んで、最後の喜久雄が観た景色に対する印象は映画と全然違った。映画の国宝が、映像的な美しさとしてきっとあの終わり方がもっとも美しかったのだろうし、小説としては、小説の終わり方がもっとも美しいのだろうなと感じた。 小説の終わり方は、結局喜久雄にとっての美しい景色が、真冬の料亭で雪が降る中父が血だらけになりながら生のエネルギーを爆発させ死んでいったという、どんな舞台やお話よりも圧倒的にリアルで鮮烈な記憶から、「血」から、結局喜久雄は逃れられないのだ、というある種の切なさもある。芸を極め、演じることを極めながらも、最後の最後には原初の圧倒的なリアリティとしての生と死を求めてしまうという終わり方、とてもうつくしいなと思った。 今月(2月)の歌舞伎座で積恋雪関扉を観る予定なので、とても楽しみ。
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