綾鷹
@ayataka
2026年2月13日
チャーリーとの旅
ジョン・スタインベック,
青山南
「かくして、わたしは気がついたのだ、自分の国を知らない、と」。時は1960年、大統領選挙の直前。ロシナンテと名づけたトラックに乗り、老プードル一匹を相棒にアメリカ全土をめぐる旅行譚。
アメリカ全土への旅のために車を快適に改造する描写も描かれているが、とても憧れる。。
旅には人をわくわくさせる力があるなぁ。
大統領選や南部の黒人差別についての話題も出るが、飼い犬のチャーリーがいることで終始気を張らずに読むことができた。
訪れた土地についてだけでなく、人との出会いと対話もこの本を魅力的にしている。
著者の相手を理解しようとする姿勢は素敵だった。
時間を空けてまた読みたい。
アメリカ杉がジュラ期からある植物だとは初めて知った。
昔のアメリカ旅行の際に見れたらよかったなぁ。
・計画され支度されていたものがひとたび実行に移されると、旅は新たな一面を見せるようになる。
旅も狩りも探検も、他とは違う独自のものとなるのだ。旅そのものが人格や感情を持ち、個性的で独特なものとなる。旅自体が一個人であり、似たものは二つとない。あらかじめ計画していようが安全を気にかけていようが役に立たないし、規制したり禁止したりしたって無駄である。
長年もがいた末に我々はこう悟る。人が旅に出るのではなく、旅が人を連れ出すのだ。
旅そのものが個性を発揮しはじめたら最後、かっちりと定めた目的も練り上げた計画も取っておいた予約も木っ端みじんにされる。そして本物の風来坊は、それを確かめた時だけ安らかに旅に身を任すことができる。そうなって初めて欲求不満が解消されるのだ。
その点、旅は結婚に似ている。コントロールしようというのが間違いのもとなのだ。
・チャーリーは背の高い犬である。助手席に座ると頭の位置はだいたい私と同じ高さになる。彼は鼻面を私の耳に近づけ、「フッチュ」と言った。
私の知る限り、彼は子音のFを発音できる唯一の犬だ。これは門歯が曲がっているためで、おかげでドッグショーに出られないのは悲劇だが、上の門歯がわずかに下唇に触れてFが発音できる。
「フッチュ」は大抵、茂みや木に挨拶したいという意味だ。
ドアを開けて外に出してやると、彼は儀式にとりかかった。彼にとっては意識せずともうまくやれることである。字も読めず車も運転できず算数も分からず、多くの面でひどく無知な彼だが、いくつかの分野では私より賢いようだ。今実行しているような彼の専門分野、ゆったり堂々とにおいを嗅ぎまわって片足を上げるという儀式においては、彼の右に出る者はいない。
もちろん彼の世界は限られたものだが、では私の世界はどれほど広いというのだろう?
・「どちらまで?」
「どこまでも」
そして私が見たのは、旅の間に何度となく見ることになった憧れのまなざしだった。
「いやあ、私も行けたらなあ」「ここが気に入らないんですか?」「そりゃ満足はしてますよ。でも行きたいもんですね」「どこに行くかも分からないのに?」「構やしません。どこでもいいから行きたいね」
・現場に飛び、鍵を握る人物に鋭く質問し、世論を掴み、道路地図のように整ったレポートをまとめるような記者を、私は前々から尊敬している。そういう技術を羨ましいとも思うが、同時にそうしたレポートが現実をそのまま映しているとは言じない。一つのレポートだけを肩じるには、現実の捉え方は多すぎると思うからだ。
私がこの本に書くことは一面の真実だろう。しかし私以外の誰かが同じ道を辿れば、また別のやり方で世界を捉え直すに違いない。文芸批評において、批評家が目についた犠牲者を自分の身の丈に合わせて作り変えるのと同じことだ。
・えらく低次定の話だが、神話が作られていく仕組みを紹介しよう。生まれ故郷の町を訪れた時、私を子供の頃から知っている老人と話した。彼の私に関する記憶は鮮明だった。私は痩せこけた子供で、ある凍てつく朝に展えながら彼の家の前を通ったらしい。オーバーコートのサイズが合わないので、馬用の毛布を留めるピンを使って小さな胸の前で留めていたのだそうだ。
かわいそうな貧しい子供だった私が、まあ大したスケールではないにしろ、大人になって出世している。ーー些細な話だが、これこそが神話を作る材料なのである。
私はその時の記憶などないのだが、そんなことはありえないと分かっていた。私の母はボタンつけにはとびきり熱心だったのだ。ボタンがついていない服なんて、だらしないのを通り越して罪悪だった。もしも私がコートをピンで留めていようものなら、母に殴り飛ばされたことだろう。
本当のわけがないのだが、老人はこの話をとても気に入っていて、訂正したところで納得しそうもなかった。だから私もあえて言わなかった。もしも故郷の町が私に馬用毛布のピンをつけさせたいのなら、私が別のものに替えることなどできっこない。その子のオーバーコートは、真実などでは留められないのだ。
・時がたつにつれ、自分の反応が鈍くなっているのに気がついた。いつも口笛を吹いていたのに吹かなくなった。飼っていた大とも話さなくなった。微妙な感情というのが消えていたのだろう。とうとう快楽と苦痛だけを基準にするようになっていたのだ。
そこで分かった。感情や反応の機微というのはコミュニケーションの結果なのだ。コミュニケーションがなければ機徴もなくなる。何も言うべきことがない人間は言葉を失う。逆もまた真なりで、何か言ってくれる相手がいない人間にも言葉は必要なくなり、言葉を失うのではなかろうか?
・こういう話は、懐古主義に凝り固まった年寄りの繰り言とか、改革反対を叫ぶ馬鹿や金持ちの主張のように響く。しかしそうではない。今のシアトルは、私の知っているシアトルが変化したものではない。新たにできた別物だった。ここがシアトルだと知らずに連れてこられたら、私はどこにいるのか分からないだろう。
いたるところが狂ったように発展している。ガン細胞のような発展だ。ブルドーザーが緑の森をなぎ倒してゴミに変え、積み上げて燃やそうとしている。コンクリート建築から撤去された足場用の白い丸大が灰色の壁の脇に積み上げられている。
発展というものは、どうしてこうも破壊と似ているのだろう。
・アメリカ杉の木々からは静寂と畏怖が伝わってくる。肩じられない大きさや、見る間に移り変わる他合いだけではなく、我々の知っているどんな木とも違う存在なのだ。彼らは違う時代からの使者なのである。百万年前に絶滅したシダ類が、三億年前の石炭紀において石炭へと変化したという謎も、太古から生きる彼らの中には秘められているのだ。
光も影も彼らの中にある。どんなに自惚れた人間も、どんなに有頂天で不遜な人間も、アメリカ
杉を目の当たりにすると敬の念に打たれてしまう。まさに言葉通りに畏れ敬うのだ。紛れもない王者の風格を前にすると、人は頭を下げるべきだと感じるものなのである。
・しかし私の頭で覚えたりもっと深い感覚に刻んだりしてきたものは、絡み合った無数の出みたいなものだ。ずっと以前に海洋生物の採取と分類に取り組みながら悟ったのだが、何を見つけるかはその時の気分に深く影響されるものなのだ。自分の外部の現実であっても、突き詰めれば自分の内部と繋がりを持っているものである。
巨大な国土の最強の国家、未来を生み出す種子たるアメリカも、私という小宇宙から見た大宇宙だと分かった。もしイギリス人やフランス人やイタリア人が私と同じルートを旅して、私と同じものを目にし、私と同じことを耳にしたとしたら、心に残る光景は私とは違ったものになるだろう。
・「さて、この犬が喋れて、二本足で立つことができたらと考えてみてください。きっと何であっても上手にやってみせることでしょう。彼を晩餐会に招待することだってできるかもしれません。しかし、あなたは彼を人間と見なすことができますかな?」「つまり、自分の妹を彼の嫁にできるかってことですね?」
彼は笑った。
「わしはただ、物事に対する感情を変えるのがいかに難しいかを申し上げておるのです。それからこうはお考えになれませんか?黒人たちにしても、我々白人に対する感情を変えるのは難しいのです。それは我々が黒人への感情を変えるのと同じことですな。なにも新しい話ではないのです。長いこと続いてきたことですよ」
・私が何度も寝返りを打つものだから、とうとうチャーリーが怒って何度も「フッチュ」と文句を言った。チャーリーは人間たちの問題など関係ない。原子を分裂させる知恵があるのに平和に暮らす知恵はないような種になど、犬は属していないのだ。チャーリーは人種のことなど知らないし、自分の妹の結婚なんて気にもかけない。そんな心配ごととは無縁なのである。
かつてチャーリーはダックスフントに恋をしたことがある。種族的に釣り合わず、体格的にも馬鹿げており、機能的にも無理がある恋だった。しかしそんな諸問題などチャーリーは気にしなかった。彼は相手を深く愛し、犬らしく全力を尽くしたのである。
なんだって千人もの人間が集まって一人の小さな人間を罵っていたのか、犬に向かって論理的かつ倫理的に説明するのは難しかろう。私は犬たちの瞳の中に、呆れて馬鹿にした表情が一瞬浮かんで消えるのを何度も見てきた。犬たちは基本的に人間を馬鹿だと思っていると、私は確信している。
・私はただ、幾人かの人々が私に語ったこと、そして私が見たことを記しただけである。それが典型的なことなのか、そこから何らかの結論が導けるものなのか、私には分からない。私に分かるのは、南部は苦しみの中にあり、人々が混乱に陥っているということだ。そして解決に至る道のりは険しく込み入っていることだろう。
ムッシュー・シ・ジの言う通りだ。問題は結末ではなく、そこに至る手段なのだ。その手段が、恐ろしく不確かなのである。
