
DN/HP
@DN_HP
2026年2月14日

ウインドトーカーズ
マックス・A.コリンズ
昨日、この小説の元になった映画の中古のDVDをみつけて、小説を読んだときの感動や思いが蘇ってきた。また読んでみたくなった。悩んだ末に結局DVDは買わなかったのだけど。
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「本書は壮絶な戦争物語であり、特殊な状況におかれた男たちの熱い友情の物語である。」
作者のあとがき的な文章まで読み終わったとき、見開きのページから始まる「解説」の、上に引いた最初の一文が目に入った。「解説」は読後感を損なうことがよくあるけれど、少し事故のように目に入ったこの一文には納得した。たしかにそういう小説ですよね。でも、それで、ああ、良い小説だった、とするのも違うと感じていた。
「戦争のヒロイズムは危険で、若い連中に、戦争は地獄ではないと考えさせてしまうかもしれなかった。」
今度は本編からの引用。この文章の「ヒロイズム」を「感動」なんかに置き変えてみれば、戦争を、「特殊な状況」での感動の物語、エンタメとして「感動」して消費することの危険性を表すことも出来るかもしれない。それは意識しなければいけないと思った。そもそもこの小説に描かれている戦闘からアメリカはティニアン島を奪取する。そのことで日本に原爆が落ちることになる、と意識してしまうと、安易に感動することは出来ないのだけれど。
とはいえ、戦争が壮絶で特殊な状況、地獄だったとしても、そこで友情を育んだり、良心を持つことや利他的な行動は存在する、少なくともそうあろうとすることは出来る。そこでも壊れない友情、そこだから生まれた友情、英雄的行為も、他の状況と同じように生まれ得る。ということは小説が描くもの、あるいは小説から読み取るべきものなのかもしれない。戦争をエンタメとして「消費」することとは別に、そこには感動させられる、わたしの生活の選択肢にもなる物語がある。そんな物語に「感動」しながら、そんなことも考えていた。
と同時に、この小説を教えてくれた友人のことも思っていた。平時は勿論だけれど、「地獄」だとはいえなくても、少しだけ特殊とも言える状況を経験したその人との関係に「友情」という言葉を当てはめて考えはじめていた。いつも待ち合わせていた駅前や炎天下のベンチ、倒れたバリケードと人の溢れる車道、タバコを吸い過ぎた後の電話を、それに今も、次々に思い、思い出していた。記憶と感慨が溢れはじめる。
もしかしたら、それらはわたしが語るべき、あるいは語りたい物語なのかもしれない。しかし、誰かのことを友人と呼ぶことと、その人との関係に友情という言葉を当てはめて考える、というのは少し別の、深度が違う行為のような気もしてくる。改めて特別だと思える誰かとの関係を考えるというのは思った以上に難しい、というか苦手だった。それはまた別の話だ、ということにしておきたい。今のところは。
小説の感想とは少し別のところに着地しようとしているけれど、読後に関係があるようでないようなところまで思索が伸びていったり、思いや思い出、感慨が溢れてしまうような小説はやっぱり、ああ、良い小説だった、と思いたい。それに、ここで描かれる海兵隊と“インディアン”というのはわたしがずっと興味を持っている、読みたいテーマなのだった。
教えてくれてありがとう。



