
読書猫
@bookcat
2026年2月16日
田中小実昌ベスト・エッセイ
大庭萱朗,
田中小実昌
読み終わった
(本文抜粋)
"ぼくが書いた小説の原稿を、女房がチリ紙交換にだしたこともある。二カ月ほどアメリカにいて、かえってきて、時差ボケなどでぼんやりしているときに、原稿が〆切ですよ、と督促された。
しかし、その原稿は、アメリカにいく前に書いておいたのだ。そして、女房がチリ紙交換にやってしまったことがわかった。五十五枚の小説だ。
ぼくは青くなるほど腹がたち、階段をけとばして、足が痛く、よけいに頭にきた。こうして、十五、六分もむくれにむくれ、なんとかしずまってきたら、女房が言った。
「いい小説だった?」"
(「女家族の中でのボク」より)
"だが、やはり、物語を読んで、合戦の模様がホーフツとするのとおなじで、坂田のオジさんの、あさぐろい腕にきざまれた傷跡にさわってみても、ぼくには日露戦争のことは、物語でしかなかった。ということは、ぼくがこうして、しゃべってることも、きいてる者には、ただの物語、それこそ戦争のはなしなのだろうか。あの戦争が、物語なのか? ぼくにとって、あの戦争は、じつは、あのという言葉もつかない。言いかえれば、ぼくにとっては、歴史でもないのだ。歴史とは、あの毛虫がこの蝶になるのを見るようなものだろう。毛虫を、げんに目の前に見ている者には、蝶の姿は見えない。見えるなんておもうのは、観念がつくりだす錯覚だ。"
(「昭和19年…」より)

