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@bookcat
にんげんのことばやくらしをまなぶために本をよんで、すきなところをめもしています。 さいきん、にくきゅうでぺーじをめくるのがうまくなってきました。 2025/3/7-
  • 2025年9月27日
    イン・ザ・メガチャーチ
    (本文抜粋) “「神がいないこの国で人を操るには、”物語”を使うのが一番いいんですよ」“ ”「結局皆、信じるものが欲しいんだと思います。特に、この社会は生きづらい、自分はこの世界に不当に扱われていると感じている人ほど」“ ”「本当は、理由もなく雑談ができる仲間が欲しかっただけなんです」“ ”勘違いしていた。自分の場合、視野は拡げるより狭めるべきだったのだ。“ ”本質的であろうとすればするほど、何の行動にも出なければどこからも裁かれないという考えに呑み込まれる。そんなことに何の意味があるんだとか、それが最適解じゃないのにとか、そんな冷笑だけが両手に溢れ、人生の砂時計をただ眺めているだけになる。“ ”本質的であることから遠く離れた場所で盛大に咲き誇るその連帯が、今の俺には光って見える。“ ”「私たちはこれまでもこれからもずっと、花道から何も搾り取ってはいません。花道に、自分自身を使い切らせてあげているんです」“ ”人を動かすのは、広い視野を以て立証された完全無欠の正しさではない。狭い視野を隙間なく埋め尽くす、あらゆる正誤を撥ね除ける強度の思い込みだ。“
  • 2025年9月26日
    ROCA コンプリート
    ROCA コンプリート
  • 2025年9月23日
    40歳だけど大人になりたい
    (本文抜粋) “たぶん、若いころは社会がもうちょっと真面目だったのだ。だから気楽にふざけることができた。でもいま、この世はメチャクチャだ。ふざけきった世の中でふざけることほど退屈なものはない。大人になりたいとこんなに強く考えるようになったのも、このふざけた世界をなんとかしたいという気持ちの表れなのかもしれない。“ (「エブリデイ惑いまくり」より) ”人は停滞するし間違えるし、わかっちゃいるけどやめられない瞬間が人生には何度も起きる。選択したとも思わないうちに選択していることもあるし、そのことに後から気付くことなんてザラにあるでしょ。私はいっぱいあった。これからもあるはず。そういうままならなさを全部「自己責任」にまとめてしまうの、人間らしさの否定だと感じる。“ (「仕事と大人」より) ”端的にいうと、「見てきたようなウソをつく」仕事である、小説を書くというのは。ただの大ボラではなく「見てきたような」の部分がミソで、ここをもってして人は「リアリティ」だとか「真に迫る」だとかいう評価を下す。“ (「フィクションと大人」より) ”究極の協調性って、自分が孤独な一個人であることを強く認識するところから生まれるんじゃないだろうか。“ (「協調性と大人」より) ”恋愛はどっちかっつうと人間の「愚行権」カテゴリに入るものなんじゃないかと思っている。なくても死なないもの(例えば文学とか)を必死に追い求め、いらんことをし、いらんものを求めることに人間の人間たるゆえんを感じるのだけれど、恋愛はその中でもとくに、やらんでも死なないけどやり始めるとすごくリソースを持っていく、アホな行為だと思う。「大人の恋」という慣用句があるけど、あるかよ、そんなもんと毎度つっこむ。恋をしている人間はみんなアホだ。“ (「恋バナと大人」より) “生き物が、特に人類というややこしい種が「発展」のみを願って生きているとは私にはとうてい思えなくて、かなりの数の人間が「消えてなくなりたい」と思いながら生きているように感じる。” (「後悔と大人」より) “「老後に他人に迷惑をかけないように」と陰毛の脱毛までする人もいるが、もちろんその選択だって自由だけど、なんかこの「迷惑をかけないように」の閉塞感が強くて、終活周りの話題は見ていて辛くなることが多い。その人がいかに充実した、納得できる死を迎えるかより、遺族や周囲の人に迷惑をかけないことが第一目的になってるようなやつ。だって、死んじゃうんだぜ。人の死なんて誰のどんなものでも多かれ少なかれ迷惑かけるに決まってる。最期くらいもっと自分のことを考えてあげてもいいと思うのだ。“ (「終活と大人 自分編」より)
  • 2025年9月22日
    渇愛
    渇愛
    (本文抜粋) “彼女は初対面の私に対し、「あなたのことを意識してますよ」という姿勢で懐に入ろうとしたのだろう。おそらく、意識的と言うよりは無意識の”反射神経”でやっているように見受けられた。そういった「人に好かれよう」という行動をとっさに取ることはもはや彼女のクセとなっているのだろうか。“ ”《私のママはずっと余裕なかったです。だから私がずっと味方でいたつもりでした。ママは大好きだったけど、ママは私の味方になってくれたことはないです。今も好きです。なんとかしてあげないとって思うから》《女の子だから、ママは》“ ”「自分のこと、やっとわかって、とにかく書けなくて書けなくて。書きたいと思えなかったから。だって、自分のことを振り返る中で、私は何でこんなに苦しいのかも、なんで”犯罪者”になっちゃったかもわからない……。どうして、どうして、どうしてってぐるぐるするばかりで……。幼稚園で何があったかとか、そこらへんはいいんですけど、中学生のあたりで、完全に書けなくなった。私、中2で頭がおかしくなったんです」“ ”「面会の最後に、渡邊さんに『どんな映画にしてほしい?』と聞いたんです。そうしたら、『地獄を見せてほしい』と言ったんです。すごく自分の見せ方がうまいコだなと。……それがとても印象に残っています」“ ”振り返ってみれば、面会室で向き合う彼女は、いつも「自分に振り向いてほしい」「自分に強い感情を持ってほしい」と望んでいるように感じられた。“
  • 2025年9月21日
    文學界 2025年 10月号
    (本文抜粋) “頭木弘樹 綺麗な物語を必要としているのは、当事者ではなく、まだ悲惨なことになる前の人たちでしょうね。いつか自分にも何か起きるかもしれないという不安はあるので、起きても大丈夫という物語があると安心できる。だから、当事者に対して、そういう物語を紡ぐように求める。蚕に綺麗な糸を吐けと言うように。” (頭木弘樹、川上未映子「痛みの一回性を取り戻す」より) “若林正恭 最近郊外に引っ越して、2拠点生活をしてるんです。家に帰るとき、左が田んぼ、右がとうもろこし畑の道があったので、これはすごいなと思って、車を止めた。夕日が映って、風で夏の稲が黄金色に波立って、それをずっと見てたんですけど、途中で、これ何やってんのって思ったんです。これをやるって勇気がいる。そう思わせるのは、何の圧だったのかとも思うし、この対談が始まった頃よりはちょっと弱まってる気もします。“ (若林正恭、國分功一郎「ネオリベの帳を越えて」より) ”日記という表現形式は、研究上の資料的価値はもちろんだが、それ以上に、人々を惹きつけ、自分とは違う誰かの経験を「追体験」させ、触発する力を持つ。それがいくぶんかの虚構や、読まれることを前提にした演技を含んでいたとしても、「日記」という形式を備えている限り、その力は機能してしまう。“ (山本浩貴「ささやかな「本当らしさ」からこの世界そのものの「フィクション」へ」より)
  • 2025年9月19日
    パリの砂漠、東京の蜃気楼
    (本文抜粋) “シンプルを志して生きてきたつもりだったのに、なぜこんなにもこんがらがってしまったのだろう。目を閉じて浮かぶものと、今目を開けてそこにあるものの差が耐え難い。ここにいたくないのにここにいる。一緒にいたい人と目の前にいる人が違う。望んでいる世界と今いる世界が遠く離れている。ただひたすら全てがばらばらで、散り散りに引き裂かれている気分だった。無力感は湖に垂らした絵の具のようにじわじわと端々から水に溶け次第にどす黒く広がっていく。” “私は何故常に理性を失い続けているのだろう。どうして三十四年間、理性を喪失したまま生きてきたのだろう。私の人生は足を踏み外し続けることで無理やり転がり続けてきたようなものだった。” “基本的に鬱は早起きや掃除や武道や水行をすれば治ると思っている旦那と、早起きや定期的な掃除、武道や水行をするような人は鬱にはならないし鬱な人はそんなことできないし、そんなことをするくらいなら死ぬと思っているのだと主張する私は、一生分かり合えないだろう。それでも重なり合った部分はあって、その部分のかけがえのなさを思うたび、私はこの人と一生離れられないような気がする。この人とは離婚するほかなさそうだ。そういう判断を下したことも何度かあったけれど、彼のかき鳴らす雑音に揉まれている内、意外なほどその雑音に私の憂鬱や死にたみが紛れていることを自覚した。永遠に分かり合えない人と一番近いところで生きることこそが、きっと私にとっての修行なのだ。” “ぼんやりと幼少期の頃を思い出しながら、合点がいった。どうしてか分からないけれど、私はもともと生きづらかった。生きづらさのリハビリをしてくれたのは、母親や家庭ではなく、恋愛であり、小説だった。” “長女と笑い合って「かわいいなあ」と目を細める私は本当に愉快で幸せを感じていたけれど、この文章を書いている今の私は胃が空洞になったような物悲しさを体の中心に感じ涙を浮かべている。普通に日常を生きる自分と書く自分の乖離に身を委ねることは、それによって生き長らえているようでもあり、首を絞められているようでもある。”
  • 2025年9月17日
    痛いところから見えるもの
    (本文抜粋) “どんな体験をした人にも、それゆえに「見える景色や立てる地平」がある。山に登らなければ、頂上からの景色はわからない。あるいは、頂上をあきらめた人にしか、同じ帰り道でもつらく見えるということはわからない。 痛みという体験も、同じだ。そんな体験はしたくないわけで、求めたギフトではないが、「憎たらしいギフト」は贈られてくる。“ ”痛みは個人的体験で、しかも言葉で表せない。“ ”人は手持ちの痛みでしか、他人の痛みを推測することができない。“ ”痛みは、人を詩人にする。詩人にならなければ、痛みを表現できないからだ。“ ”痛みは、激痛のときには、人を現在だけに閉じ込めて、前後を考える力を失わせる。 そして、いったん収まると、今度は未来への不安で、人から現在を奪う。“ ”苦痛が人を生まれかわらせることはない。生まれかわったような気にさせるだけだ。 しかし、「苦痛は人間に眼を開かせ、ほかの方法では知覚できないような事象を、まざまざと見せてくれる」のも、またたしかなことだ。これまで見えなかったものが見えるようになる。見えていたものも、ちがって見えてくる。“
  • 2025年9月14日
    さみしくてごめん
    (本文抜粋) “わたしは選ばれないままに、未知に出会いたい。特別な誰かではない仕方で、未知に触れたい。カフェでうろうろと座りたい席を探すように、未知に近づきたい。この世界をよく見たい。幅広さではなく、奥行きを研究したい。そうなると自然に、「散歩」という手立てが浮かび上がってくる。” (「念入りな散歩」より) “何かをよく見ること。そのために距離をとること。その際に、免れ得ない問いがある。それは、どこから見るのか、という問いである。見つめるそのわたし、それはどこかで見ているのか。誰として、それを見るのか。“ (「見られずに見る」より) “やさしくすることは、体力を使う。やさしいとは、いたわる、思いやる、愛する、心を届ける、心配する、そのすべてを煮込んでそれぞれの境目がなくなったような態度である。そこには迷いがある。逡巡がある。躊躇がある。わかりにくさがある。時に発揮されず、隠されることもある。誰にも気づかれずに、どこかへしまい込まれ、そのまま忘却されることもある。” (「きみの足を洗ってあげる」より) “ただ存在するだけの運動をしようと思った。これは、生産性だけでものごとが測られてしまうことに抵抗するささやかな社会運動のつもりでもあるし、ただ存在することを自分にゆるすためのトレーニングでもある。” (「ただ存在するだけ運動」より) “ことばが馬鹿にされ、ことばが無視され、ことばが届かないと思わされているこの世界で、それでもことばを書く理由は何だろう。” (あとがきより)
  • 2025年9月10日
    PRIZE-プライズー
    (本文抜粋) “物書きなんて、と、背表紙の列を眺めながら思った。本を読まない人間からすれば、この世に存在しないも同然だ。“ ”「ねえ、作家にとって何がいちばん怖いかわかる? 周りにいる誰も、ほんとうのことを言わなくなることだよ。書くものが適当に面白くて、しかも売れてたら、誰がわざわざ嫌われるようなこと言いたがる? 私、裸の王様だけはイヤ。井の中の蛙はもっとイヤ。嗤われてるのに自分だけ気づいてないなんて、死んだほうがまし。だからお願い、約束して。他の誰が知らんぷりをして黙ってても、千紘ちゃんだけは私にほんとうのことを言ってくれるって」“ ”「そういう流行りの題材を滔々と語るのって小説のやることかしら。ドキュメンタリーのほうがよっぽど伝わるんじゃない? 傷ついたり苦しんだりしている人物にいかにも寄り添っているふうな視点のとり方をなさってるわよね。それをテレビドラマのようだと評する委員もいたけれど、私に言わせればその言い方はテレビドラマに失礼だわ。今時のドラマはもっと洗練されている。だいたい、辛くて悲しい話を書くのに、作者が先に泣き出してどうするの。登場人物それぞれを冷徹に突き放すくらいでなくてどうするの。寄り添うどころか行き過ぎて同化してしまうから、会話も地の文も説教くさく響くのよ。あれこれ理由づけしないと人の不幸ひとつ描けないんだったら、それはあなたの筆が足りてないだけ」“
  • 2025年9月8日
    めんどくさがりなきみのための文章教室
  • 2025年9月7日
  • 2025年9月7日
    凡人の戦略 暗躍する仕事術
  • 2025年9月7日
  • 2025年9月4日
    作家の老い方
    作家の老い方
    (本文抜粋) “一日の仕事を終えて、深夜テレビを見ている時、気がつくと、じゅうたんにペタンと坐り、背中を丸め、あごを前に出して、老婆の姿勢をしているのです。 「あ、いま老けた……」と思います。“ (向田邦子「若々しい女について」より) “単なる人間の生きかたとして、よい生きかたをしている人については、老年も、若さも、問題にならないのではないかとおもう。“ (金子光晴「若さとは」より) ”然るに中年期に入って来ると、人は漸くかうした病症から解脱してくる。彼等は主観を捨てないまでも、自己と対立する世界を認め、人生の現実世相を、客観的に傍観することの余裕を得て来るので、彼自身の生きることに、段々味のある楽しみが加はって来る。“ (萩原朔太郎「老年と人生」より) “今年、僕は米寿を迎えました。だが、いまでも生きていることは楽しみです。朝、目が覚めた時から、詩が向うからやって来てくれるのをじーっと待つ一日です。僕が張っている網に詩が秋の渡り鳥みたいにかかってくれます。“ (堀口大學「酒」より) ”我々が若いうちは何かに取り憑かれていてそこからの抜け道があることが全く頭にない為にそうした抜け道が一切封じられているとも言える。 そのように未熟である状態に最も欠けているのが時間の観念であると考えられる。既に早く年取ることが出来ればと思うことがどこか遠い先に自分が望む自分というものを置くことでそれならば現在は無我夢中のうちに過ぎ、その前後には空白があるばかりである。それでも時はたって行くことを我々は若いうちは知らずにいる。併し時間の経過を意識しないでいる為に時間が止ることはないのでその刻々に自分がいることに次第に気付くようになることで我々は大人の域に近づく。それは我々がしたいことをするとか無智が知識で少しずつ埋められるとかいうことにも増してであって寧ろ時間の経過に気付くことで自分がしたことや知ったことが始めて自分のものになる。これは昔はよく聞かされた庭前の梧葉とか光陰を箭に喩えるとかいう種類の時間でなくてそういう人を急き立てる形での時間ならば人間は若いうちはいつも何かに急き立てられていて時計の音にも焦燥を感じる。“ (吉田健一「早く年取ることが出来ればと……」) ”加齢とは、愉快も悲哀も、希望も失望も結局はそこそこのものでしかないみずからの人生の凡庸と、少しずつ慣れ親しんでゆく過程にほかならない。“ (松浦寿輝「孤蓬浮雲」より) ”おとしよりのそばにいて不思議なことは皆、不思議と思うひと自身に送り返される。“ (鷲田清一「忘れの不思議」より) ”「唯一無二の私である」ということと「大勢の中の一人であるということ」は紙の裏表のようなものである。言葉でこれを統一することはできないが、どちらか一つを消すことはできない。この矛盾を日々の生活の中で生きてゆくことが人生なのであろう。“ (中井久夫「老年期認知症への対応と生活支援」より)
  • 2025年9月2日
    失われた貌
    失われた貌
    細かいところにまで手が行き届いた王道の警察小説、初の長編小説でこのミステリー筆力の高さ、すご “驚くべきことに、イガグリ公園に栗の樹はなかった。この事実に交番の巡査は気づいているのだろうか。”
  • 2025年8月31日
    隣りの女新装版
    (本文抜粋) “「上野。尾久。赤羽。浦和。大宮。宮原。上尾。桶川。北本。鴻巣。吹上」 男の声は低いが響きのいい声である。ひとつひとつの駅名を、まるで詩でもよむように言ってゆく。夢ではない。声は明らかに、壁の向うから、隣りの部屋から聞こえてくる。” (「隣りの女」より) “桃子は、勤めから帰ってアパートの窓が見えてくると、自分たちの部屋だけ明りが暗いように見えた。ドアの前で大きく深呼吸をして、 「ただいまァ」 勢いよくなかへ入った。” (「胡桃の部屋」より) ”昨日から日記は白紙である。一番の真実は、本当のことは書けないということがよく判った。“ (「下駄」より)
  • 2025年8月29日
    生成AIで世界はこう変わる
  • 2025年8月26日
    その時あの時の今
    (本文抜粋) “大体、それほど風変わりでもない男女が知り合って一緒になるまでの話に、二十六時間はいりません。といって平凡なそのあたりの人々の物語に、そうそう派手な事件は起こせない。すると、たとえば披露宴によぶ人を決めるというだけで一時間つかってしまうとか、女の方の姉がまだ独身で、面白くなくて一日街を歩くということだけで一時間をつかってしまうとか、映画では考えられない贅沢な時間のつかい方で、平凡な女や男の一日を書くことができるわけです。勿論それには面白く見せなければならないという条件がつきまとうわけですが、そのスピードの遅さ、ありあまる時間を、「真面目に」ライターが引き受けた時、テレビドラマは、他のメディアにはない力を発揮するのではないか、とよく思うわけです。思うだけで一向に発揮できませんけれど、それは力不足のせいで、テレビドラマには、その可能性が豊かにあるという気がしています。” (「日常をシナリオ化するということ」より) “しかし、私見によれば、テレビドラマの魅力のひとつは「枝葉」や「モタモタした進行」にあるのであり、演劇も映画もとりあげない「深い意味をつけようもないつまらぬ細部を拾って行く」ところにある。” (「枝葉の魅力」より) “まったく、こんな風にして私は大抵のことを受け入れてしまう。気むずかしくないことは、自分でも嫌になるほどだ。決った俳優さんに合せて、あらかじめ考えていた人物像を変えて行くことに、快感のようなものがあるのだ。“ (「五月の三日間」より) ”話すと意外な一面を持っている人っているでしょう。僕はそういう人が好きなんです。最近のドラマの会話の中には、何の本を読んでいるとか、どういうものが好きかって、あまり出てこないんですが、このドラマでは恋人たちの会話に観念の領域を含ませたかった。“ (語り下ろしインタビューより)
  • 2025年8月24日
    生きるかなしみ
    (本文抜粋) ”「生きるかなしみ」とは特別のことをいうのではない。人が生きていること、それだけでどんな生にもかなしみがつきまとう。「悲しみ」「哀しみ」時によって色合いの差はあるけれど、生きているということは、かなしい。“ ”大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく、心の持ちようなのではあるまいか? 可能性があってもあるところで断念して心の平安を手にすることなのではないだろうか? 私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか? 本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ることなど、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの歳月は要さない。“ (山田太一「断念するということ」より)
  • 2025年8月24日
    らせんの日々
    らせんの日々
    (本文抜粋) “「上から見れば、堂々めぐりのように見え、横から眺めれば後退しているようにも見える。しかし、事実は、一歩一歩であろうとも、確実にせり上がってゆくもの、それが”らせん”である」 「福祉に従事することは、多かれ少なかれ、”らせん”のようなものである」と。” “「先生がおっしゃっていたのは、『支援とは、その人が自分はここにいて良いと思える関係や場所をつくること』やって。僕らは、生きづらさを感じている方に、たとえ解決はできなくても、耳を傾けつづける。それが僕らの営みなんです。『何も解決してへんやん!』と思って、こうしたら良いんですかとなっても、そこに答えはない。だけど、そばで一緒に聞いていることに意味がないわけではない。そこに、僕たちが果たせている役割がきっとある。それが、佐々木さんがいうてはるらせんなんやないかな」“
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