

読書猫
@bookcat
にんげんのことばやくらしをまなぶために本をよんで、すきなところをめもしています。
さいきん、にくきゅうでぺーじをめくるのがうまくなってきました。
2025/3/7-
- 2025年8月15日長い道こうの史代読み終わった(作品内のセリフ抜粋) ”「わたし あなたと結婚できて良かった」 「こんな夜中にいっしょに散歩してくれる人がいるっていいわね」 「夜中でもちゃんと信号はともっているし 川は流れているのですね」“
- 2025年8月15日過去は死なないテッサ・モーリス‐スズキ,田代泰子読み終わった(本文抜粋) “わたしたちの思いえがく歴史は、たくさんの源泉からの寄せ集めである。その源泉は、歴史文書の叙述だけではない。親から聞かされたこと、写真、歴史小説、ニュース映像、漫画、そして(このところ伸長著しい)インターネットなどの電子メディア。そうした無数の断片が入った万華鏡をくるくるまわしながら、わたしたちは自分の生きているこの世界の起源と本質とを説明してくれる理解パターンをつくっては、またつくりなおす。” “記憶に強く残る歴史的写真の多くに共通することだが、このふたつの映像はきわめて個人的であり、私的である。焦点は特定の、しかしこの瞬間においては無名の、人の顔にあてられている。見る者のなかに、これはどんな人なのか、何を感じていたのか、と想像したい気持ちを呼びおこす。“ ”「……私は、自分の作品を読み返すのは身の毛がよだつほど嫌だった。「なんて自分は下手なんだ!」と落ち込み、辛くてたまらないから、自分の作品を発表した掲載誌はすぐ押し入れのなかに隠した。『はだしのゲン』の構想はつぎつぎと頭のなかを駆け巡っていたが、私は娯楽作品を描きながら気分転換をはかり、半年がすぎた」 (『はだしのゲン』を描いた中沢啓治)“ ”過去を眺めるのに”現在”よりもっと見晴らしのいい地点があると思ったり、過去の出来事に関与した人たちの心や肉体にわたしたち自身を投影できるようなつもりになったりするのは、ばかげた幻想にすぎない。わたしたちにできるのは、現在自分のいる位置について、そして、過去についてのわたしたちの見方が未来のビジョンとどう関係するのかについて、正直であろうと努めることだけだ。“
- 2025年8月15日歩くひと 完全版谷口ジロー読み終わった(本作連載時の谷口ジローによる近況報告より) “やっぱり歩くのはいい。車や自転車は見えないものも、歩いていれば、見えたり聞こえたりする。歩くのは楽しい。歩いていると、なんだか人間にもどれそうな気がするのは、僕だけだろうか。” “10年間住みなれた仕事場を引っ越しました。力仕事に無縁だったせいで、もうへとへと。それでも新しい環境で気分転換。近所の散歩が楽しみです。”
- 2025年8月14日半分姉弟(1巻)藤見よいこ読み終わった
- 2025年8月13日日航ジャンボ機墜落: 朝日新聞の24時朝日新聞社会部読み終わった(本文抜粋) “払暁の現場。焼けただれ、えぐられた山肌、そして山林。樹々に乗客の衣服か、布きれがからみついている。まだところどころがくすぶっていて、白っぽい煙が漂う。粉々になった機体の破片が光っている。“
- 2025年8月12日
- 2025年8月11日
- 2025年8月11日
- 2025年8月11日
- 2025年8月11日
- 2025年8月11日
- 2025年8月10日いえめぐり (ビームコミックス)ネルノダイスキ読み終わった
- 2025年8月10日ひょうひょうネルノダイスキ,三根かよこ読み終わった
- 2025年8月10日月曜日の友達(2)阿部共実読み終わった
- 2025年8月10日月曜日の友達(1)阿部共実読み終わった
- 2025年8月10日ありす、宇宙までも(3)売野機子読み終わった
- 2025年8月10日ありす、宇宙までも(2)売野機子読み終わった
- 2025年8月10日ありす、宇宙までも(1)売野機子読み終わった
- 2025年8月8日春宵十話岡潔読み終わった以前、出張中のホテルに置いてきてしまったものを買い直した。 (本文抜粋) ”私が数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。“ (「はしがき」より) ”頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。“ ”全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。種子に土をまけば、生えるまでに時間が必要であるように、また結晶作用にも一定の条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてからかなりの間をおかなければ立派に成熟することができないのだと思う。だからもうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時はもう自然に問題は解決している。“ (「春宵十話」より) ”教室を出て緊張がゆるんだときに働くこの智力こそ大自然の純粋直観とも呼ぶべきものであって、私たちが純一無雑に努力した結果、真情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力の光が射したのです。そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。しかし、間違いがないかどうかと確かめている間はこの智力は働きません。“ ”別のいい方をすれば、絶えずきれぎれの意志が働き続けるのが大脳の過熱で、この意志が大脳前頭葉に働くのを抑止しなければ本当の智力は働かないということです。本当の智力というのは、本当のものがあればおのずからわかるという智力で、いわば無差別智であります。自分が知るというのでなく、智力のほうから働きかけてくるといったものです。これにくらべれば、こちらから働きかけて知る分別智はたかの知れたものといえましょう。“ (「数学を志す人に」より)
- 2025年8月7日人間の建設小林秀雄,岡潔読み終わった(本文抜粋) “岡 素朴な心に返って、時とはどういうものかと見てみますと、時には未来というものがある。その未来には、希望をもつこともできる。しかし不安も感じざるを得ない。まことに不思議なものである。そういう未来が、これも不思議ですが、突如として現在に変る。現在に変り、さらに記憶に変って過去になる。その記憶もだんだん遠ざかっていく。これが時ですね。時あるがゆえに生きているというだけでなく、時というものがあるから、生きるという言葉の内容を説明することができるのですが、時というものがなかったら、生きるとはどういうことか、説明できません。そういう不思議なものが時ですね。時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、ということは、まことに不思議ですね。強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです。“ ”岡 数学を熱心に勉強するということは我を忘れることであって、根性を丸出しにすることではありません。無我の境に向わないと数学になっていかないのです。ドストエフスキーは悪人でも、やはり熱心に創作に没頭している時は、自分を忘れて無我の境地で書いているでしょう。同じですね。“ ”岡 理性というのは、対立的、機械的に動かすことしかできませんし、知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。本当の心が理性を道具として使えば、正しい使い方だと思います。われわれの目で見ては、自他の対立が順々にしかわからない。ところが知らないものを知るには、飛躍的にしかわからない。ですから知るためには捨てよというのはまことに正し言い方です。理性は捨てることを肯じない。理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。“
読み込み中...