
ジクロロ
@jirowcrew
2026年2月21日
道徳の系譜学に向けて
フリードリヒ・ニーチェ,
須藤訓任
ちょっと開いた
道徳における奴隷の叛乱はまず、怨恨の念そのものが創造する力をもつようになり、価値を生みだすことから始まる。このルサンチマンは、あるものに本当の意味で反応すること、すなわち行動によって反応することができないために、想像だけの復讐によって、その埋め合わせをするような人のルサンチマンである。すべての高貴な道徳は、勝ち誇るような肯定の言葉、然りで自己を肯定することから生まれるものである。ところが奴隷の道徳は最初から、「外にあるもの」を、「他なるもの」を、「自己ならざるもの」を、否定の言葉、否(いな)で否定する。この否定の言葉、否(いな)が彼らの創造的な行為なのだ。
(10 ルサンチマンの人間の特性)
ニーチェの言うところのルサンチマンは、
環境により与えられた価値観(=道徳)に基づく
「現状維持」から生じる感情であるということ。
その「与えられた」価値観の外にあるものを、
感情的に否定するのではなく、
存在として肯定するーー
すると、おのずと「与えられた」ものに対して
否定、つまり疑問が生じ、そこからはじめて
能動的な価値観が生成しはじめる。
否定すべきは
「与えられた」価値観に基づく「悪」ではなく、
「与えられた」価値観そのものであるということ。
「すべての高貴な道徳は、勝ち誇るような肯定の言葉、然りで自己を肯定することから生まれるものである。」
ニーチェがあっさりと片付けている、この「然り」に辿り着くための道程は、かなりしんどい。
おのずと身についた価値観の総点検からはじまる「然り」の事業。
私は私を肯定する。
その「肯定」を導き出した価値観が誤っているとすれば、私は「事物」だ。
「認識が事物に従うのではなく、事物が認識に従う」
『純粋理性批判』でカントの示した「コペルニクス的転換」は、ここにおいて別なかたちでニーチェに引き継がれているように思う。
認識が事物を動かしているのであれば、
感情もまた事物を動かしている。
認識の起源に感情があるとすれば……。
「私は「事物」ではない。」
これこそが、ニーチェの求めて止まない
「然り」の出発点だったのではないか。
彼に押し付けられてきた道徳が、
彼を「事物」に仕立てようとしていたのならば。
感情やそれに伴う想像という「反射」は、
「事物」特有の行為であるということに
気づいた日から歩き出した彼の背中は。
「アプリオリ」と「与えられた」
ーーこの受動性を能動性に変えること。
本当の「ギフテッド」とは何かを追求し、
それにより掴んだ何かを羅針盤として、
能動性に舵を切り替えること。
価値観は、いつも自身の先を行き、
贈与はいつも、遅れてやってくる。
価値観は、私の感情に敏感で、
その背中でそれに感づくと、
その歩みはさらに速くなる。
その背中はさらに遠のく。
その価値観の、冷たい背中を追い越せば、
振り返り見る価値観の表情と
彼の背負っている背景こそが、
贈与の描写そのものであるのかもしれない。
その眺めに、おのずとこぼれる言葉が
「然り」であるのかもしれない。
美しく見えたその背中の主も、
正面から眺めたら、ピカソの絵みたく
壊れて、惨めに泣き崩れているのかもしれない。
それを「然り」と眺め、笑わなければならない
ーーそれもまた、こわい気がしなくはない。
しかし、私は「事物」ではない。
だから私は、私の先を行く価値観に
追い着こうと、想像に足留めされることなく
歩みを続けなければならない。
ーーなんか自分が、ツァラトゥストラの
遺伝子の「乗り物」みたくなってくる気分。
これこそが今なお健在なニーチェの生命力。
