
ジクロロ
@jirowcrew
2026年2月22日
マルテの手記
リルケ
かつて読んだ
"僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。なんのせいか知らぬが、すべてのものが僕の心の底に深く沈んでゆく。ふだんそこが行詰りになるところで決して止らぬのだ。僕には僕の知らない奥底がある。すべてのものが、いまその知らない奥底へ流れ落ちてゆく。そこでどんなことが起るかは、僕にちっともわからない。"
p.10
マルテの一人称で書かれた内容に、三人称で描かれたスメルジャコフの印象が想起される。
"ところが実際、彼(スメルジャコフ)はときおり家の中や、あるいは庭や往来でさえも、立ちどまって、物思いに沈み、十分くらいそのままたたずんでいることがあった。
……
その印象は彼にとっては貴重なものであるし、きっと、意識さえせず知らぬ間にそうした印象を彼は貯えてゆくはずだ。なぜ、何のためにかは、もちろん彼にはわからない。
……
瞑想家は民衆の中にはかなり多い。きっとスメルジャコフもそうした瞑想家の一人だったのだろうし、おそらく彼もやはり、自分ではまだ理由もほとんどわからぬまま、貪婪に印象を貯えていたのにちがいない。"
(『カラマーゾフの兄弟』第三編 好色な男たち 六 スメルジャコフ)
マルテは匂い(スメル)に敏感である。
"僕の目についたのは不思議に病院ばかりだった。
……
街路がいっせいに匂いはじめた。ヨードホルムと馬鈴薯をいためる油脂と精神的な不安と、僕はどうやらこの三種の匂いをかぎ分けることができた。"
(p.8)
「ヨードホルム」は「個性のない死」(管理社会)、
「馬鈴薯をいためる油脂」は「卑俗な生」(物質的な生活)のメタファーであるとすれば、
「精神的な不安」、その「匂い」こそ、
三人称で描かれたスメルジャコフの生ではないか。
「精神的な不安」という、
匂わないものが匂うマルテの嗅覚、
それを匂うものと並列にしてしまうところに
彼の内面と外面の境界の崩壊があり、
死を脅かすもの、生を汚すもの、その果てに
魂の遣り場のなさ(不安)が表現されているように思う。
"僕自身を入れる屋根がどこにもないのだ。
雨は容赦なく僕の目にしみるのだ。"
(p.53)
すべてを赦す、その人はもはやいない。
《すべては許される》
スメルジャコフはイワンの思想を実行する。
「赦す」はなく「許される」、
「宗教」の実践ではなく「思想」の実行。
それは人間という第三者を立てることにより
可能となることではないか。
"僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。"
その匂いは消えない。だからこそ
マルテは、そしてリルケは、
匂いとその影を正面から見つめる。
一人称で書かれた者の強みはそこにある。
三人称で描かれてしまえば、
すべては救われないからだ。
"かかる時、世間の人々の間に立ちまじって生きるのは、例の第三者ではなく、ただ二人きりの人間でなければならぬ。二人だけについて、あらゆることが書かれねばならぬ。
しかも、もっとも肝心なものはまだ何一つ書かれなかったのである。二人は悩み、行為し、お互いにどう生きてよいか知らぬのだから。"
(p.30)
イワンとスメルジャコフ、マルテとリルケ、
「二人」の対照性。
"この世の中は奇態な一種独特なものでいっぱいぎっしり詰っているのだ。それらは神のために何かある意味を言い表わそうとしているのに違いない。けれども、それがどうしてもはっきり口に出せないのだ。僕はだんだん心の中に悲しい誇りのようなものが深い根を張ってくるのを感じた。僕は隠微なものを体じゅういっぱいに詰めこんで、ただ黙々と外を歩いている人間を想像した。"
(p.116)
マルテは続ける。
"僕は大人に対して非常な同情を感じた。僕はつくづく大人を偉いと思い、僕のその感心の仕方を大人に告げてみたいと思った。"
(p.116)
そしてスメルジャコフは「大人」になれなかった。
"おそらく彼もやはり、自分ではまだ理由もほとんどわからぬまま、貪婪に印象を貯えていたのにちがいない。"
体じゅういっぱいに詰め込んだもの、
それを携えたまま、
スメルジャコフは故郷に留まった。
マルテは都会に出た。
「どうしてもはっきりと口に出せないもの」
それをどう表現するか、またはしないでいるか。
絶対的に理解のできないものたちとの
真正面からの向き合い方のサンプルが
ここに記されている。
光を急いではならないということ。

