
amy
@note_1581
2026年2月22日
新訳 ドリアン・グレイの肖像
オスカー・ワイルド,
河合祥一郎
読み終わった
感想
ルッキズム
エイジズム
LGBTQ
現代に響く「美」と「秘匿」の呪い
オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を読み終えた。まず心に残ったのは主人公ドリアンが世間の規範を脱ぎ捨て、自らの美学と快楽に忠実に生きる姿に見出した「清々しさ」だった。他者の視線や道徳に縛られず、己の欲求を最優先するその生き方はある種の解放感に満ちている。しかし、その清々しさの裏側には、ヘンリー卿という甘美な言葉を操る大人によってかけられた「若さと美への執着」という重い呪いが横たわっていた。
ドリアンが堕落の道を突き進めたのは自分の罪をすべて引き受けてくれる「肖像画」という身代わりがいたからに他ならない。もし肖像画がなければ彼はここまで大胆にはなれなかっただろう。しかし同時に、たとえ肖像画がなくても、老いや醜さを恐れる彼は今の社会でも見られるような「自暴自棄な生き方」を選んでいたかもしれないとも感じる。
現代を生きる私たちもまた、ドリアンと地続きの場所にいる。彼が恐れたのは「自己の劣化」そのものだったけれども現代社会においては「他者と比較だ。もしくは「他者から見て若いか、美しいか」という方向に呪いの形が変わっただけではないだろうか。
エイジズムやルッキズムという言葉で語られる今の社会の閉塞感は、ドリアンを狂わせた呪いと本質的な強さにおいて何ら変わりはないように思える。
また、ドリアンが肖像画を屋根裏に隠してまで必死に秘匿しようとしたその異様なまでの執着は、当時の同性愛者たちが置かれていた”クローゼット”として生きることの過酷さを物語っている。彼にとっての肖像画は社会から決して許されない「真の自己」の象徴でもある。自分の快楽を優先したいという個人的な欲望と、それが社会的に「罪」とされてしまう構造。その板挟みのなかで罪悪感に削られながら証拠(肖像画)を消し去ろうとした彼の最期は単なる自業自得ではなく、時代が生んだ悲劇としての側面も持っている。
ドリアンほどの度胸も肖像画という魔法の鏡も持たない私ではあるが、自分の中にある快楽への渇望や、老いへの微かな恐怖を突きつけられた気がする。この物語は19世紀末の退廃的な幻想譚でありながら、今なお「美」という呪いに揺さぶられる私たちへの鋭い鏡として存在し続けている。


