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@note_1581
悲しみなら忘れられるけど 愛はなかなか消えやしないよ 2025.03.05〜
  • 2026年10月3日
    額縁のなかの女たち
    女性とアートについて、何か読みたいと思って以前に何冊か読んだことがあった池上英洋氏の本を手に取った。 いわゆる美術における女性表象などを扱っているのかと思いきや、女性の画家のことも扱っていて知らなかったことが多くとてもおもしろく読めた マリー・アントワネットのあの花を持った青いドレスの絵を描いたのはマリー・アントワネットと同い年のヴィジェ=ルブランという女性である。2人は親交も深く、ルブランが妊娠中に筆を落としてマリー・アントワネットに拾ってもらったというエピソードはこの本だからこそ書かれた内容だと思う。また当時の王立アカデミーが女性には門戸を開いていなかったとか(予想はしていた)、女性が画家として歩むためにはどれほど苛酷な環境、時代だったのかが描かれていたり、絵画に描かれた女性から当時の教育水準やジェンダーギャップまでが垣間見えるのもなるほど、と興味深く読んだ。女性画家だけ集めた特別展とかやればいいのにな。どっかやってくれないかな
  • 2026年9月29日
    死にたいって誰かに話したかった
    南綾子の作品に出てくる登場人物はどうしてこんなにも痛々しく、それでいて愛おしいのだろうと思う。 彼女の作品はおそらく3作目(のはず)だが、出てくる登場人物はいずれもかなり難ありである。 今作もタイトルからわかるように、それぞれうまく行かない問題を抱えていて「死にたい」と思っているような人間が出てくる。 それぞれの「生きづらさ」はあるのだが、作中でシスターフッド足切り問題ついて展開されているところが好きだ。 「シスターフッド」は今やフィクションでは定番となっているし、現実にある女性差別に対抗する連帯として好意的に受け止められている。 たしかに今までの歴史のなかで女性差別に対抗してきた女性たちはシスターフッドと称される連帯があっただろうし、現在もシスターフッドというこの社会をともに生き抜く仲間や共闘する仲間の存在はある。 ただシスターフッドは女性なら誰しも発生しうるものだろうか、とも思う。 私はシスターフッドが扱われるフィクションは大好きだし、現実の社会でも女性差別の撤廃を目標に活動している女性たちが対談したり、共同でイベントを開催したりとシスターフッドが煌々と輝く場面は勇気をもらえるし、女性として心強さもある。 でもその「シスターフッド」は本当に女性なら誰しもが開かれているものなのか、と言われると首をひねる。 作中で奈月が発したように女性同士の相手を労ったり、変化に気づいたりするケア的な要素を多く含んだ会話が苦手な女性はシスターフッドに入れてもらえるのだろうか。 私の考えるシスターフッドというものは、そういったなめらかなコミュニケーションやケアをしあうだけのものではなく、女性差別の呪縛から女性を解放したい、されたいという思いを抱えているのであれば、そのあいだにコミュニケーションは必ずしも発生する必要はないと思っている。 しかし、女性ならこういうコミュニケーションができるはず、ケアができるはず、という言説は女性間でも、特にシスターフッドを熱く支持している人のなかでも、かなり根強いものに感じるし、それらが苦手な女性は存在しない、ゆえにできない人を排除しているということに思い至ってないのではないだろうかとも思う。 そこに切り込みを入れた展開はこのシスターフッド称揚激しい時勢ではかなり稀有なものだと思われるし、どんなコミュニティにもなじめない人の存在をとらえていることが南綾子の強みだ。 すごくきらきらしていて、まぶしくて魅力的だけれど、私の物語ではないと消沈してしまう作品も多いなかで、人間がもちうる痛々しさをとらえ、それでも必死で懸命に生きているのだと描くことで、どうにか報われてほしいと願えてしまうような魅力ある人物たちにこれからも魅了されていくのだと思う。
  • 2026年9月29日
    ハワーズ・エンド
    ハワーズ・エンド
    『ハワーズ・エンド』を読んで最も印象に残ったのは、フォースターが階級とジェンダーという2つの問題を通して、「誰の声が社会の中で尊重されて、誰の声が無視されるのか」を描いていることだった。 階級の問題ではレナード・バストの存在が象徴的である。レナードは知識や教養を求める向上心を持っているにもかかわらず、中流階級以上の人々と同じような機会を得ることができない。彼の努力や人格よりも、社会的地位や経済状況が人生を決定してしまう様子には強い不公平さを感じる。シュレーゲル姉妹は彼を理解しようとするものの、結局のところ彼女たちも恵まれた階級の立場からしかレナードを見ることができない。その善意が必ずしも救済につながらない点も印象的だった。 一方でフェミニズムの観点からこの物語を見つめると、女性たちの声が軽視される構造も描かれている。特にルース・ウィルコックスがハワーズ・エンドをマーガレットに譲りたいと望んだにもかかわらず、男性中心の家族によってその意思が無視される場面は象徴的である。 そこでは女性の判断や希望が正式な権力を持たないものとして扱われている。 またヘレンの生き方も当時の社会規範への挑戦として読むことができる。未婚のまま子どもを産むという彼女の選択は当時の価値観から見れば非常に大きな逸脱である。 しかしフォースターはヘレンを道徳的に糾弾せず、一人の主体的な人間として描いている。この点には女性の生き方を従来の枠組みから解放しようとする姿勢が感じられた。 ただし、この作品が現代的な意味で完全にフェミニズム的であるとは言い切れない。 女性たちの影響力は依然として結婚や家族という制度のなかでのみ発揮されており、男性中心社会そのものを根本から覆すまでには至らない。それでも女性の主体性や意思が尊重されるべきだという問題提起は明確に存在していると思う。 階級とジェンダーは別々の問題のように見えるが、この作品では両者が重なり、交差している。レナードは階級ゆえに声を持てず、ルースやヘレンは女性であるがゆえに声を軽視される。フォースターはそうした人々を描きながら、つながることの理念を提示している。 同時に作品を読み終えて人々が本当に理解し合うことがいかに難しいかも同時に伝わってくる。 『ハワーズ・エンド』は単なる階級小説でも恋愛小説でもなく、社会的な立場の違いによって分断された人々がどのように共存できるのかを問い続けている。そしてその問いは格差やジェンダーの問題が続く現代にも通じるものであると感じた。
  • 2026年9月25日
    セックスワーク・スタディーズ
    あたり前といえばそうなんだが知らないことや、今まで社会のなかでセックスワーカーがどういう扱いを受けていたのかがわかり、この流れを知らないことにはセックスワークの議論というかスタートラインにすら立てないのではと思った。 そもそも諸外国でも法の規制や何を犯罪とするかがまちまちで、まさに議論の渦中なのだと感じる。 また赤線に対しての黒線の存在を知り、個人売春を禁じ、管理売春を禁じなかったことで、反社会的組織とのつながりの始まりなどを知った。 人権に基づく法律ではなく、家父長制とキリスト教的な道徳観が混じり合った道徳に基づく法律として売春防止法が制定されていたためだということもこの本を読まなければわからなかった。 まずはセックスワークをそういったアングラな組織から取り戻さねばならないのではと思う。 こんな女は悪い女、この仕事は悪い女がすることだとだとセックスワーカーやセックスワークを断罪していたら、家父長制から抜け出せない。 またトランスジェンダーのセックスワーク従事率の高さも、どういう理由からセックスワークを選択するのかという実情もわかっていなかったし、この本を読んだことでわかったとは言えないけれども、想像で誤った方向に考えを膨らませるよりはまだマシになれると思いたい
  • 2026年9月21日
    自閉スペクトラム症者が小説をめぐって語りあう
    ASD当事者かつADHD当事者の横道誠氏と、ASD当事者(未診断でも自認がそうである人を含む)とともに小説作品を読み、それについて対話することでASD当事者の世界を見つめる1冊。 5人の方と横道氏が対話を重ねたものを5章にまとめられており、いずれも興味深く、また横道氏の知識もさることながら5名の当事者の方々の文学や映画や美術などのカルチャーへの造詣が深いのがおもしろかった。ブックガイドや映画や漫画ガイドとしてもかなりの数の作品を知ることができて、気になるものが増えた。当事者との対話のひとつにひとつの作品を読んで、それが好きだとシリーズを一気にまとめて読んでしまう(読みきらないと他の作品にいかない)というのがASD特性としてわかりやすい特徴だと指摘している箇所があり、それが私にとっての最大の「わかる!!!!!」であった。これってあるあるではないんですか…???てっきり好きな作家やシリーズ作品が見つかったら、そこを全部漁ったほうが自分にとっておもしろい作品に出会える率上がるじゃん…?そしてシリーズものなら最後まで気になるじゃん…?と思っていたけど、実はそれはASD特性的なものだと知って完全にユリイカであった。自分もASDみがあるなと最近思っていたのだけれど、やっぱりそうかもしれない
  • 2026年9月21日
    バラバラ屋敷の怪談
    私はホラーの好みが非常に狭いタイプなのだが、おもしろく読めた。 やっぱりホラーミステリとして読めるのが好きなんだな。とある要素で途中までミスリードしていたものがあったのだけどこういうのに引っかからなくなりたいな、ミスリードの中身がイメージ、偏見によるものであったので。他の作品も読んでみたくなった
  • 2026年9月21日
    重力ピエロ
    重力ピエロ
    会話がおしゃれでリズミカルでよくそう評されている理由がわかる。色んな作品からの引用があり、ぐえー教養ってやつだ。作中にさらっと混ぜられるのすごすぎる 途中までほーんという程度だったけども、だんだんと性加害への憤怒を感じられたし、話の展開もどこに着地するのか全然読めなくてぐいぐい読ませる。冷蔵庫の女という批判ももしかしたらあるかもしれないけれど、私はあまりそうは思わなかった。 重力を社会というものになぞらえているのがよかったし、複雑なものだけどいくら社会的な悪とされるものでも、それが自分の大事なものや人なら自分だけはそれを受け入れたい、というごく個人的なものを描いてるのが好きだった
  • 2026年9月5日
    バラバラな世界で共に生きる
    やっぱり哲学って難しい。筆者は噛み砕いてくれたけれど、それでも途中むむむ…となるところがあった 私はやっぱり分断されている状況がもどかしく、どうすればいいんだろうと考えていたのだけれど、ローティ哲学に少し興味がわいてきた。 ”「正しさ」とうまくつきあっていくためにも「正しくなさ」にも目を向ける必要がある”というのは、いまの私にとてもしっくりときた。 また左派が承認の政治を求めたことでマジョリティが剥奪感をいだいしまうメカニズムにも触れながら、会話をしていくことを諦めない内容に勇気をもらえた
  • 2026年9月5日
    当事者対決! 心と体でケンカする
    おもしろかった。発達障害当事者の横道さんと20歳で病気になり、13年ものあいだ闘病していた頭木さんとの往復インタビュー。 インタビューなのでしゃべり言葉ですべて収録されており、心の面、身体の面の不調や唱題を語っていく。ふたりとも全く違う生活をしてきたのに、通じるものがあったり、全く通じず、お互いにそれぞれの文化を教え合う場面もあり、とても楽しく読めた この世の中は健康体や健常者ばかりではなく、はみ出している人をさらに制度からはじき出さないような社会にしていきたいと思うし、こういう本のような違う分野からの語り合いというのももっと共有されていけばいいと思う
  • 2026年9月5日
    大学4年間の西洋美術史が10時間でざっと学べる
    図書館で美術系のコーナーが組まれており、おもしろそうだったので借りてみた。池上英洋さんの本は違うものを1冊読んだことがあり、それがきっかけでより美術を見るのが好きになった 今回は美術史ということで流れに沿って美術において、絵や彫刻などの素材や技法、流行ったテーマなどをの変遷がまとめられており、おもしろかった 神話モチーフにした絵が好きなんだよな
  • 2026年9月5日
    ベル・ジャー
    ベル・ジャー
    シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』を1950年代アメリカと現代日本の女性を取り巻く社会状況の比較という観点から読むと、この作品は単なる歴史的な女性差別の記録ではなく、現代日本社会に対してもなお有効な批評性を持つ作品であることがわかる。 1950年代アメリカにおいては、「女性は結婚し、妻や母として生きるべきである」という規範が比較的露骨な形で存在していた。主人公エスター・グリーンウッドは高い知性と才能を持ちながらも、作家として生きる可能性と、社会から期待される伝統的な女性役割との間で葛藤する。その苦しみは、女性が社会的に許容される生き方の狭さによって生み出されたものとして理解できる。 一方、現代日本では法制度上は男女平等が保障され、女性の高等教育や就業の機会も拡大している。そのため表面上は、女性は自由な人生を選択できるようになったように見える。しかし実際には、管理職や企業役員、理工系専門職などにおける男女比の偏り、男女間の賃金格差、女性に集中する非正規雇用、妊娠や出産によるキャリア中断など、多くの構造的な不平等が依然として存在している。また、経済的自立が容易ではない状況のなかで、結婚が女性にとって生活の安定や経済的保障を得るための重要な手段として機能している側面も残っている。 このような状況を踏まえると、『ベル・ジャー』は過去の作品でありながら、現代日本の女性たちの置かれた状況とも重なる部分を持っている。しかし文学批評としてさらに興味深いのは、エスターが生きた1950年代アメリカの方が、ある意味では「敵」が見えやすかったという点である。当時は女性に対する制約や期待が明確であり、「結婚しなさい」「家庭に入りなさい」という社会の要求が可視化されていた。これに対して現代日本では、「女性は自由に生きられる」「自由を選択できる」という理念が広く共有されている。その結果、女性が直面する困難は社会構造の問題ではなく、個人の努力や能力の不足として理解されやすくなっている。 そのため現代の女性は、「自由に選べるはずなのになぜうまくいくかないのか」という形で苦しみを内面化しやすい。賃金格差や昇進格差、出産後のキャリア形成の困難さなど、本来は社会構造に由来する問題が、個人の選択や責任の問題として処理されてしまうのである。この観点から見ると、『ベル・ジャー』の題名にもなっている「ベル・ジャー(ガラスの鐘)」とは、1950年代の性別役割そのものではなく、人々の閉じ込めながらもその存在が見えにくい社会構造の比喩として読むこともできる。 私はいったい何を求めているのか、何を求められているのか。私は、私は、私は…。 出版されるにあたっての副題である〈I am I am I am〉が溺れている最中の必死な息継ぎのようだ。
  • 2026年9月5日
    曖昧な弱者の時代 (岩波新書)
    ◎「曖昧な弱者」とは何か タイトルの「曖昧な弱者」とは、どんな存在か。 社会的な「弱者」というと、貧困層や女性、外国人、LGBTQ、障害者、高齢者などのマイノリティを思い浮かべる人が多い。こうした「明白な弱者」に対し、「曖昧な弱者」は「弱さ」が必ずしも自明ではないが、主観的には「自分たちだってつらい」「それなのになぜ守られないのか」と感じている人たちのことだと著者の伊藤氏は定義している。 高齢者だけではないく現役世代もしんどい。女性だけではなく男性もしんどい。外国人だけではなく日本人もしんどい。こうした「弱者」の公認リストに入らない「普通」を自認する人たちが、自分たちの「つらさ」を訴え、「弱者」の仲間入りを求めているのが現在の社会だという。 ◎具体例:氷河期世代からバックラッシュまで 伊藤氏はその源流は氷河期世代だと分析している。 ゼロ年代(2000年代)の言論空間にあります。ネットの言説分析を続けるなかで、不遇感や剥奪感を抱えた「曖昧な弱者」が社会全体の方向性を左右する存在になっていると伊藤氏は気づいた。 将来の展望が見えずにいる不遇、就職氷河期の恨みつらみがねじれたかたちで、一部は在特会(在日特権を許さない市民の会)やネット右翼などの主張へと流れ込み、それらが参政党や高市早苗首相への支持につながっているという分析だ。 ジェンダー平等やフェミニズムに対する「バックラッシュ」はジェンダー平等の動きに対して古い権威にしがみつく「強者男性」が反発しているという見方と、古い権威とは縁遠い「弱者男性」が反発しているという見方があったが、残念なことにどちらも正しい。「強者男性」と「弱者男性」が結託するかたちで、バックラッシュが大きな流れになっていた。 ◎リベラル・左派への留保 このようなことを示すと、リベラルや左派は外国人よりも日本人を大事に、マイノリティーの「特権」を解体せよ、といった主張を容認していいのかと言ってくる。 当然、そんなことはない。 「曖昧な弱者」の動向に注目しているからといって、過激な主張の「主流化」を追認したり妥協していいわけではない。本来の「主流」は平和や人権を尊重するリベラルな価値観の側にあるべきだと伊藤氏も述べている。 ただ、実際に問題があるけれども現に存在し、大きな影響力を持つに至った「曖昧な弱者」に対処していかないと、数の上ではマジョリティの彼ら彼女らをリベラルの側に取り込むことはできないのだ。 ◎2000年代と2026年——反貧困論壇の変化 2000年代では「反貧困」が一定の力を持ち、「格差・貧困論壇」が盛り上がっていた。しかし「敵」がわかりやすかった2000年代と「どう対抗すればいいかが見通しにくく」なった2026年現在。 2000年代と比較にならないほど貧困は深刻化しているし、所得の中央値は下がり続けている。現場に来る当事者は若年化していて、女性も増え、ネットカフェ生活も「当たり前のもの」として定着した感があるが、自己責任論の強さゆえかこの問題はなかなか関心を呼ばないこともまた事実だ。2026年に反貧困の活動が2000年代のように当事者に響くかと言われたら微妙だと思う。 ◎参政党の戦術 むしろ参政党の「日本人ファースト」に惹かれる当事者も珍しくなくなった。それらの答えのひとつが、参政党などが発信する「見捨てない」「忘れない」という「承認」のメッセージなのだと思う。自分たちは見捨てられてない、忘れられてないんだという承認やそれを伝えるメッセージを「曖昧な弱者」は求めている。 本書でも指摘されていたように、参政党はまず共感を持てる共感パートと自分たちの主張に近いコアパートわけて有権者に訴えていた。 私は参政党の思想や主張をまったく支持していないし、正直なくなってほしい政党だとすら思うが、この手法だけはうまいと思う。政治によって日々の余裕が削られているなかで、いかに相手を自分たちの主義主張へ惹きつけるかというのは、考えていかなければならない。 伊藤氏はこうした「曖昧な弱者」を取り込むための対立軸の再設定として、階級的連帯への転換を提案している。 ◎ 対立軸の再設定——アイデンティティ政治から階級的連帯へ 最近では、人びとのあいだに分断をもたらす「アイデンティティ政治」ではなく、階級的な連帯を重視すべきだという論調が一部で強まっている。 伊藤氏も『曖昧な弱者の時代』の最後でも論じられている、「リベラル派+マイノリティ vs マジョリティ+右派」の対立図式に代えて「アッパーミドル層+富裕層 vs 貧困層+ロワーミドル層」の対立図式にいっていくべきだという主張をしている。 政治という営みにとって、どこで境界線を引くかは死活的に重要になることを踏まえれば、理解できる展開ではある。「マイノリティ」と「マジョリティ」との間に境界線を引いてしまうと、「マイノリティ」の側にほぼ勝ち目はない。 ◎リベラル政党はどうすべきか 私はとっとと人権が保障される世の中になってほしいし、そういう考えをもった政党に政治を担ってほしい。だからちゃんと届くやり方を考えてくれよ、と思う。 政策の内容だけではなく、それが誰によって、どのようなメッセージとして受け止められるのかという次元にも目を向ける必要があるように思える。それは現実の政治の側面のみならず、メディアやコミュニケーションを通じて社会的信頼をいかに回復していくのかという課題とも深く結びついている。 理念だけを啓発して票が稼げたら苦労しねえんだ。属性ではマジョリティだったとしても、見捨てられ、置き去りにされている感覚を持つ人たちに届けるべき言葉はなんなのかを真剣に考えてくれ。 この著書のタイトルにあるように、マジョリティながらそういう感覚を持ってしまう人についてどうすればいいかと考えていかなければならない。 ここでリベラルや左派はマイノリティのほうが明らかに見捨てられているし置き去りにされているという主張は出てくると思うし、明白な弱者なのだからそれは否定しない。 それを放置しているから、自民党圧勝なんて結果になる。 ◎社会民主主義のリデザインを求めて いま求められているのは社会民主主義のリデザインであり、そのための利害調整ではないか。それをリベラルや左派が引き受けるべきなのではないかと思う。 ニューヨークのマムダニ市長は大学教員の息子で、裕福な育ちであるが、まさに社会民主主義的な改革を行っており、しかも一部の富裕層が経済の持続性や公正性の観点からそれを支持している人もいる。日本とは環境がかなり異なるという留保は必要だが、希望の持てる光景だ。
  • 2026年8月23日
    好きになってしまいました。 (だいわ文庫)
    私にとって公共の場で読めない作家が二人いる。 朝井リョウと三浦しをんである。 この二人が作家として世の中に送り出してきた著作はいずれもしずばらしい。人間の営みのなかにある愚かさも尊さも描いていて、ファンである人は多いことは想像に難くない。 しかし、エッセイは違う。いや、広義の意味では違わない。二人のエッセイも小説作品と同じくとてもおもしろい。本当に、マジでおもしろい。おもしろすぎて普通に声出して笑ってしまう。 私はわりとゲラなので笑ってしまうハードルが小学1年生がやるゴム飛びくらい低いのだが(ゴム飛びっておもしろいよね、小さいころめっちゃやってた)、それを差し引いたとしても日常においての目の付け所も語り口もシュールで一癖も二癖もある。 おもしろいという言葉の意味が笑いのツボをついてくるという意味でおもしろいのである。 このたび読んだ三浦しをんのエッセイ『好きになってしまいました』は日常的なエッセイでありながら、著者の「うつくしいもの」や旅の様子などが収められている。 どうやってもポインセチアを枯らしてしまうため、お風呂場をその子の居住地にしただとか、ベランダのいちごを狙いにくるナメクジや鳥や虫との攻防戦。時折挟まる友人や家族との軽妙なやりとり。 ありきたりではないうつくしいものに、うつくしいとはいったい何なのか、と考えたくなるし、懸命だったり、怠惰だったりしながらも日々の生活をする様子がおかしい。 親しみの持てる内容から、旅行記のなかで山形の即身仏を見た際の長編エッセイは読みごたえ抜群だった。これJR東日本のサイトにのせたほうがいいんじゃないか。山形県の観光課の皆さん見て(読んで)ますか? めずらしいものを見ると、とりあえず手に持っている薄い電子板でパシャリとやりたくなる現代の病を持っているものとして、即身仏エッセイにはちゃんと赴いた場所へ敬意を払うことの重要さを再認識させられた。 あとがきまでずっと笑っており、こんなおもしろエッセイだから出かけるときも携えて、公共交通機関で読んだりもしていたが、おもしろすぎてマスクの下でずっと下唇の内側を噛んでいた。マスクを常につけていても変な人間扱いされなくてよかった。 今後おもしろい本やおすすめ本を聞かれたら、ミステリとかSFとか明確な方向性を希望されない限りは三浦しをんと朝井リョウのエッセイをとりあえずすすめてみることにする。
  • 2026年8月14日
    咲良は上手に説明したい!
    生理用ナプキンを着用してみた男性作家こと滝沢さんの新刊。 これまで滝沢さんの著作は何冊か読んでおり、歴史小説と生理時に着用するナプキンを作ることを組み合わせた『月花美人』など今まで歴史のなかで描かれてこなかった、女性の生活やその時代の困難さを照射した小説を書かれている方だと認識している。 その滝沢さんの「今一番、熱いお仕事小説誕生!」という触れ込みで話題の本書だったが、お仕事小説があまり好きじゃない私でもものすごくおもしろかった。 しかも女性バディものだし、その女性たちの仕事のライバルも女性なのである……。うれしい。 お仕事小説といえば代表的なのは池井戸潤だと思うが、あのあたりの作品になかったものがあった。 お仕事小説が苦手なのは、基本的に仕事が好きな人間しか出てこないからで、その脇に追いやられる生活部分が薄いからなのだけれど、この小説はテクニカルライターという職業を起点にしつつ、ベビーカー、AED、トイドローンなど生活のなかに組み込まれたいろんな属性の人たちが出てくる。 テクニカルライターとは「電化製品・精密機器などの取扱説明書を作成する職業」のことである。 物の使い方をどう伝えるかということは使う側の動線を体感に即したかたちで想像する必要があるし、それがベビーカーなら子どもを連れているとき、AEDなら倒れた人が目の前にいるとき、トイドローンなら子どもが使うとき。 それぞれ使う人の属性や使うときの精神の状態など、あらゆることを想定して、どんな状況でもわかるようにしなければならない。 お仕事小説は基本的にその職場の人たちしか出てこないけれど、この小説はお仕事小説でありながらお仕事以外の側面、仕事ではない、とされるようなところ模とらえている。 AEDを使うとき、倒れた人が女性であったとき、男性がAEDを使うとなったら躊躇してしまうのはなぜなのか、一分一秒を争う状況で、その躊躇を取り払うためには説明書に何を書いておけばいいのか。 テクニカルライターの仕事をしていくにあたり、社会のあちこちに横たわる問題があぶりだされて、それに主人公が気づいていく。 テクニカルライター未経験の主人公が世の中の見え方が仕事によって変わっていく様が鮮やかで、人物の変化を感じることができるのは小説の醍醐味だと思う。 最後のトイドローンのコンペの場面では主人公たちやトイドローンに込められた製作者の思いに泣けてしまった。空は楽しいものであるべきで、恐ろしいものであってはいけない。 何を隠そう滝沢さん自身がテクニカルライターとしてお仕事をされているので、文章が明快で読みやすく、情景の想像もしやすくてするする読めるものだった。 内容はけっこう硬派なのに、文章が軽くてすごい。次作も早く読みたい。
  • 2026年8月14日
    「心のない人」は、どうやって人の心を理解しているか
    本書は、「自閉スペクトラム症の当事者はマンガ、小説、アニメ、映画、テレビドラマ、音楽などから“人の心”を理解しようとしているのではないか?」という仮説をもとに、コミュニケーションが苦手で共感能力が乏しいとされてきた、自閉スペクトラム症者7名へのインタビューをまとめた内容となっている。 仮説をもとに、さまざまな生い立ちを抱える当事者7人に、自身も当事者である著者が共感を込めてインタビュー。かれらが夢中になったマンガ、小説、アニメ、映画、テレビドラマ、ポップミュージックは、どのようなものだったのか。「当事者の生活史」と「昭和・平成・令和のサブカル変遷史」が見える一冊だ。 個人の生活史、なかでもカルチャー面をつまびらかにすることは、そのなかでなにに夢中になったか、またハマらなかったものはどんなものかを聞くことであり、それはつまりなにに心を打たれ、何が心に響かなかったかを読者に知らせる作業である。 インタビュイーの人たちは私よりも世代が上の人たちが多く、名前だけ知っている作品が多かったけれど、何がその人にとって魅力的だったのか、という点については自分も好きな作品に出会ったときと同じような思いを抱いたことも多かった。 この本のによかったところはインタビュイーを投げっぱなしにしないところである。 著者の横道氏も ASD かつ ADHD の当事者である。インタビューのなかで受け取った内容をマコト A とマコト B という2人を用意して、対話形式で横道氏自身にも通じること、通じないことを踏まえて深掘りしていくという、いわば交通整理をしながらも、スペクトラムという言葉が表すように人によっていろいろあるのだと知らせてくれる。 あなたはあなた、私は私、こういうすっきりとした割り切りというか他者と自分をセパレートにするという考えにするりと着地をしていく。 それが私にはとても心地よかった。 インタビューのなかで当事者たちがいかにいろいろなことを思い、考え、人の心を理解しようと実践しているかを見れば、ASD に「人の心がない」なんてとてもじゃないが言えないだろう。だからこそ横道氏は「心のない人」という一見ぎょっとするような言葉をタイトルに持ってきたのではないだろうか。 本書のなかでマコト A が言っていた「数が多いか少ないかで、正常か異常かが決まってくるからね。そのことはもっと議論されても良いよね。」という言葉がすべてで、結局、いまこの社会のなかで多いか少ないかで異常ではないと判断されている。 単なる数の多寡で異常だとか正常だとか何様かと思う。裏を返せば、いま異常である側の数が多い社会(正確にはそれがよしとされる社会)では、いま正常の側にいる人たちが異常になっていくということでもある。 時代や社会や産業構造によってころころと変わる尺度で、異常だとか正常だとかで他人を測ること自体があまり意味のないようなことだと思えてくる。
  • 2026年8月11日
    往復書簡 限界から始まる
    往復書簡 限界から始まる
    読み応えがあった。元AV女優という肩書を持つ作家の鈴木涼美さんと上野千鶴子氏との往復書簡本。 あるPodcastで男性の文筆家の方が女性同士の往復書簡の本を読んで、男同士でやったらここまでの深度のものになるか自信を持てないとまで言っていたことを思い出した。 選び取る言葉に容赦がなくて、ずっと切り合っててすごい。手練れたちのやりとりで、読み応えでいったら間違いなくあった。 ただ上野千鶴子氏の功績を差し引いても、セックスワーカーへの眼差しや主張にどうしても差別的なもの感じてしまったことと、それをぶつけられている鈴木さんに苦しさもあった。 上野千鶴子氏が鈴木さんに放った言葉が忘れられない。 ”ふしぎなのは、あなたが決して自尊感情の低くない、しかも性的価値を売り物にしなくてもほかに承認欲求のために利用可能な資源を持っている―アマルティア・セン流にいうなら「ケイパビリティ(潜在能力)」の高い―女性でありながら、風俗や援交に参入する女性たちと同じ行動をしたことです。” いったい何を言ってるんだと思う。性的価値を売り物にする女性は自尊心が低いのか、潜在能力が低いのか?すごく偏見や差別的な視線を含んだ言葉ではないか。 彼女の功績を知っているからこそ、とても残念だと思う。 何かしら過去の思想などを語るときに即座にそれを提唱した学者が学説が出てくることや幅広い文化に精通しているのはさすがだった。だからこそただ残念に思う。 全体的に上野千鶴子氏が教えを説き、それに鈴木さんが応えるというような形式に見えてしまったので、今ならもっと対等な感じになるだろうかと気になる。
  • 2026年8月1日
    マリリン・トールド・ミー
    うう~、いい小説だった。ずっと泣きそうになりながら読んでいた。 コロナ禍で大学生になった女の子のもとにある夜、あの「マリリン・モンロー」から電話がかかってくる。 最初は戸惑いながらも、少しずつマリリンとのおしゃべりを楽しめるようになる主人公と、イメージとは違う、静かで少し茶目っ気のあるモンローとのやわらかなやりとりがとてもよかったし、ずっと男によって作られたイメージ、男によって語られてきたマリリンが本当はどんな女声だったのか、生きていたらどんな俳優になって、どんな生き方をしていたのか。 もしかして彼女こそがフェミニズムの先駆者なのではないか。ずっと口を塞がれてきたマリリン・モンローに主人公が懸命に手を伸ばして、現代にも存在する女性差別に気づいていく話はあたたかさと甘さがあると同時に爽快で、あまりこういう読み味になる小説はなかった気がする。 マリリン・モンローのイメージがどれだけ彼女の実在からかけ離れていたのか、彼女が受けた屈辱を想像し、掘り返し、もっとあなたのことを教えて、私に伝えてという感情が行間からにじみ出る。『マリリン・トールド・ミー』。 同じように男に口を塞がれ、勝手なイメージを流布された女性はマリリンだけではない。今語られている彼女たちの姿は誰か物語ってきたのか。何が伝わり、何が伝わっていないのか。彼女たちの周囲にいた女性はどんな関係を築いていたのか。 問い直し、語り直されてほしい女性たちがいっぱいいる。
  • 2026年8月1日
    階級と「私たち」のゆくえ
    話題の(?)河野真太郎さんの新著。やっと読んだ。 いや~おもしろかった。やっぱりいまの社会の情勢を「階級」を抜きにして語るのは無理があるし、そこを抜きにしたままで連帯はできない。 それは生きることと密接に結びついていて、逃れることはできないから。 そしてこれはマジで個人的なものなのだが河野真太郎さんの著書はいつもテーマが興味深くて、今までも何冊か読んだけど難しくて眉間にしわを出現させながら読んでいたんだけど、今回はもともとがWeb連載だったということもあってか、すごく読みやすかった。 著作内で取り上げられていた映画もおもしろそうで、いくつか配信サービスで見られそうだったのでマイリストに追加しておいた。 イギリスにおいて排外主義者が労働者階級というイメージで語られがちだけれど、かつて労働者階級はコミュニティとしての機能も有しており、むしろ連帯していた歴史からなるというのは知らなかった。 日本の作品だと『あのこは貴族』と『プリテンド・ファーザー』を取り上げていて、そのどちらも私は知っていたこともあり、そこに描かれていた横たわる階級を横断するように連帯する内容はイメージがつきやすかったし、河野氏が提言した共通のなかの差異と差異のなかの共通こそが階級によって分断されがちな我々が連帯するための重要なポイントであるということは納得したし、やっぱり私はこの社会情勢のなかで連帯を諦めたくはない
  • 2026年8月1日
    終わりの感覚
    終わりの感覚
    波風を立てないということは誰に対しても距離感が一定で、踏み込まない踏み込ませないということなんだよな。 それを自覚していないし、何ならジェントルな振る舞いで自分はちゃんとしているんだという自己認識のずれた主人公のズレが後半にいくにつれてどんどん出てきてすごくて最後のほうは「おうわ~」って声出た。 信頼できない語り手ってやつなんだけど、どんな事象もそれを語る人によって歪められるし、こぼれ落ちるものがある。じゃあ何が真実なのか。真実とそれぞれの立場から見えた事象の差異を丁寧に探っていくしかない。 真実はいつもひとつ、なんて有名なミステリ漫画の主人公がいうけれど真実なんて人によって簡単に変わるんだよな
  • 2026年8月1日
    夢を与える
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