
双子の山羊
@50paginasxhora
2026年1月30日
映画は予告編の後に始まる(下)
藤原嗚呼子
読み終わった
友だちを助けたい八木さんが、教員の二村を試さなければならなかったことに思いを致さなくてはならない。それは、男性社会と大人の男性への圧倒的な不信任である。男たちは危害を加え平穏を脅かすものだから、正当に助けを求めることはできないと、若者や女性たちに思われてしまっている。この空気感は、作者の突飛な創作などでは全くない。至極現実社会の有り様そのままだと言わざるを得ない。
2025年の主人公たちが、2009年の出来事を振り返る眼差しは、その2009年に登場したツイッターが声なき人たちにもたらした発言の場で積み上げられ社会が学んできたことと照らし合わせながら、今の私たちが「あのときの私の言動は誰かを傷付けていなかったか」と自問するときの感覚と丁度重なっているようだった。
カオリが一つの区切りをつけるという形で物語は終わる。それはたしかに、奏多や二村たちが強く後押ししたからだろう。それは良かった。しかし、性被害の事実を受け入れ告発のために詳細を語らねばならない、その過程の重圧と孤独と無理解を、カオリはまた抱えなければならない。事実を明るみにし罰すべきを罰する過程で、被害者はまた客体化されあるいは二次被害を受けることになる。下巻の表紙は、そんな終わりのない暴力性を描いているように見えた。