百年の散歩(新潮文庫)

18件の記録
菜穂@mblaq_08252026年6月28日読み終わった本のある暮らし積読家物語を読むというより、言葉の迷路を歩いているような読書体験。 現実と夢の境界が曖昧になり、気づけば「これは私の物語なのでは」と思うほど深く入り込んでいました。 特に「穴倉みたいな喫茶店を開きたい」という一節には驚きました。 私も以前から、本に関わる店を「あなぐら」という名前で開きたいと考えていたからです。 この本との出会いは、偶然以上の意味を持つように感じました。 時間を置いて、また新しい自分で再読したい一冊です。




- 糸太@itota-tboyt52026年3月7日読み終わった高校生に勧められた。多和田葉子さんの文章が国語のテストに出たのだが、あまりに面白すぎて問題を解くどころではなかった、と。私は読んだことがなかったので手に取ると、なるほどこれは魅力的すぎる。 舞台はベルリン。「わたし」を通して描かれる街の風景は、思い浮かぶ言葉の端っこを広げていくような連想が繰り返され、イメージは多層的に折り重なっていく。 妄想と言えば妄想。でも、そう簡単には切って捨てられない、ほんとうの姿が描かれているようにも感じてくる。「わたし」という一人の人間の頭の中を軽く飛び越えて、気がつけば都市そのものが語り始めているようにさえ思えてくる。 それにしてもテストとは…。どんな設問だったにせよ、答えなど私には導き出せそうもない。



DN/HP@DN_HP2025年10月18日かつて読んだarchive最近街を歩いているときは友達の素敵なMIXなんかを聴きながら、少し俯いて考え事をしていることが多いのだけど、何かのタイミングで視線を上げると、この本で書かれているように街には膨大ともいえるような”情報“が溢れていることに気がつく。 そのなかの印象的ないくつかのもの、店の看板やショウウィンドウのなかの商品から夢想に漂ったり、ある通りに差し掛かればそこで受けた電話のことを思い出して、「あの人」に想いを馳せる。好きだったお店の跡地をみて街の移り変りにセンチメンタルになったりもするし、通りの名前に最高だったパーティのことも思い出す。 数年前に世田谷のある街をパートナーと歩いていたときに、そんなふうに思い浮かんだことをいちいち口に出していたら、呆れ怒りされたことがあったのだけど、やはり散歩は読書と同じように孤独な行為なのかもしれない。はじめのうちは。 本を読んでいても街を歩いているときのように、そこに出て来る印象的なラインや気になる固有名詞から夢想や思索に浸ってしまうことがある。考え事をしながら歩いていたらいつのまにか目的地に着いていたように、センテンスの終わりまで目が滑っていってしまったりもして。そんな本や街を「読んだ」ときに考えていたことは、言語化しようとすると掴みどころがなかったりして色々と零れ落ちていってしまうけれど、この本のようにそれを物語として書き起こせたとしたら、それは孤独な行為ではなくなる、ような気がする。あるいは、その孤独がまた誰かの孤独とも繋がっていく。これはあの小説みたいな話。 そういえば、はじめて大好きなラッパーの音楽に寄せた文章は、その音源をリピートしつつゆかりの街を歩きながら考えたのだった。「街にあるスパイス」に気を取られながらも歩く、じっくりとその音楽を読む。そんなふうにして書いた文章は、そのときの考えをうまく書き起こせていたかは分からないけれど、今でもとても気に入っているし、イントロが流れればあのときの街の通りも思い出す。というようなことを、頁をめくりながら考えはじめたら、完全に目が滑り出したので、掴みどころのないまま一旦書き起こしておきます




























