3・11以後とキリスト教

3・11以後とキリスト教
3・11以後とキリスト教
荒井献・本田哲郎・高橋哲哉
ぷねうま舎
2013年3月1日
2件の記録
  • 私にとっては、抜き差しならない問いを、はらんでいる書籍です。まるで鏡に映った自己を見るようで、読めて本当に良かったです。 簡単にいうと、贖罪論をキャンセルする逃げ道は、確保されているかもしれないのだな、と小さく安心できたところに、本書の、私にとっての良さがありました。 これを、高橋哲也先生は、神的暴力という言葉を使って、生きているということは、すなわち息することを根本的に許されているのだ、と語っています。つまり、逆に言って、イエスは死への論理である贖罪論を、きっと用意はしていないだろう、という信頼に重きを置こう、ということでした。これが、読んでいて、非常に通りが良かったです。 ただ、メモ程度にはなりますが、ヨハネ書の9章にある、生まれつきの盲人を癒す、「神の業がこの人に現れるためである」を、検討する所まで、突っ込んで欲しかったです。これも、病を負った人への慰めの言葉として、よく引用されるからです。ただ、私の感触としては、ここにも、representationの気持ち悪さが、表出している気がして、気持ち悪いからです。 それと、贖罪論を回避できて、安心できるのは素晴らしいことですが、じゃあ逆に、自分が誰のことも犠牲にしないで生きられるかというと、これも不可能だろうと、正直思います。だから、本書のスタンスは、編集の方も含めて、贖罪論を回避しようという流れでしたが、あらゆる人間が抱える、生きることへの怯えを、どう解消すれば良いのかは、わからないままでした。 あと、本田哲郎先生が、とても実践的な言葉を紡がれていたのが、本書の土台となっているように感じられて、本として温かさを感じられたのと、荒井献先生が「パウロは自由からの逃避を戒めていた」と仰っていたことが、臆病な私には、非常に有益な見解だなと、思われました。 震災に、どんな意味を与えれば、私たちの心が落ち着くのか、百人百様なんだなと、思いました。
  • くりこ
    くりこ
    @kurikomone
    2025年12月27日
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