ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫)

3件の記録
くりーむ@cream2026年3月28日読んでる感情における身体の役割のパートの、性的本能のところを読みました。 このあたりは基本的に言いすぎている感じがあって、眉を潜めたくなるような主張が多いのですが、とはいえ100年近く前の話だし、そんなものか、とおもいながら読みました。 スタンダールの『恋愛論』から引かれている概念として「結晶作用」というものがありました。 これは、枯れ枝が塩の結晶で覆われていくように、すきになったひとを次々と美化してしまうような反応を刺すのだそうです。 私はこの作品を読んだことがなかったので、初めて知ったのですが、なるほどそういうこともありそうだ、とおもいました。 さて、ヴェイユのここでの議論は最終的にスピノザを援用して、「よろこびはより大きな完璧への移行の感情であり、哀しみはより小さな完璧への移行の感情である」と書かれます。そして、どのような物事も偶然からよろこびの原因とも哀しみの原因ともなるのであって、それは、大小の完璧への移行と結びつき反射によってそのような感情が生じるのだ、と結論付けられます。 私はこれはなかなか面白い見方であるとおもったと同時に、いくつか議論から抜け落ちている場合があろうとおもいました。次の2点です: 1. バタイユ的な快 : スピノザの議論は一種の崇高さやイデアに対する愛のようなものだとおもいますが、バタイユのいうような侵犯・或いは崩れといってもよいです、そういったものへの移行が一種の喜びであることはどのように説明できるでしょうか。 2. 完璧さの比較可能性について : ここでは、状態の移行を完璧性の軸に射影できることが議論を支えています。なんらかの断絶・急激な変化によって、もはや直前の状態との完璧さの比較ができなくなってしまうような場合(それは極端な成り上がりの物語であったり、或いは事件や事故・被災の物語かもしれません)については何が言えるでしょうか。 これらの問いは、考えていきたいとおもいます。
くりーむ@cream2026年3月27日読み始めた読み始めました。 身体という語が使われているのですが、これはいったいどういうものを指し示しているのかわからないです。 「身体は関係を捉える」という話自体はわかるものの、椅子の例なんかを合わせて考えるとなんともいえないです。 椅子の例については、ちょっと面白いと(自分で)おもったので、以下に書いておきます。 本書において、椅子はその素材などにかかわらず、人に、「座る」という動作を促す、という主張がなされています。 しかし、この動作を促される、というのが身体の次元で起きているのかはよくわかりません。寧ろ、意味を参照することによってそのようなことが起きているんじゃないかとおもいます。 というのも、例えば、崩壊している学級では、椅子は座るものであると同時に投げつけるものである、ということがありえ、どちらが選択されるかは思考から離れて決定されるわけでありません。
