ピエール・ブルデュー

5件の記録
- 播磨@harima_gyoza2026年8月8日読み終わった読書メモ〈場〉の問題が最近の関心なんだよな〜と思い読む。 文学と社会(学)の密接な関わりを感じるほどに、「国語」の授業空間ってすごく不思議だな〜と感じている。(これはずっと感じている!) 「社会とつながる」ことを目指したコンピテンシー育成の国語授業を展開した時に、文学を用いるのは不可能じゃね?と思ってしまう。そのテクストが評価されたのは流動的な当時の〈文学場〉の出来事であって、今の私たちが当時の価値観を持ってそれを評価することは極めて恣意的でそれを理解して読解することが「読めている」ことになるのは、「教師」という権威性によって肯定される正解でしかないというか。 そういう読みを展開している以上学校という〈場〉が学習者の「文化資本」格差を助長し、その構造を再生産し続けているということになるよな〜(再生産論にも絡むところだと思うけど、個人的にはその「主犯」が国語なんじゃないか?という考え)と。 だから国語授業という〈場〉に置かれた文学はめちゃくちゃ入れ子的な構造になっていて、文学場によって承認された作品を採択し教科書に配列する時点の〈場〉の問題もあるし、それを教師が選択して教材としてどう用いるかという点でも〈場〉の問題があるし、その授業空間がどのような学習者によって(あるいはその学校が!)構成されているのかという点でも〈場〉の問題があって…だから学校で主要科目として文学を扱う事のできる(そしてコンピテンシーを説明しづらく、教師の母語でもある)国語ってなんかすごい、無意識的に良くも悪くも学習者の行動規範とか、文化観とかの限定に強く作用してしまう教科だよなと思う。。。なんかうまく説明できないんだけど(だからずっと研究が進まないんだけど)、そういう怖さみたいなのがある気がする。


