夏から秋にかけての短編

4件の記録
DN/HP@DN_HP2026年9月22日本と日記のある過去古本屋の棚の前で、これはちょうど今時期のことじゃないですか、と思いながら片岡義男の『夏から秋にかけての短編』というタイトルの短編集を手に取ったのは三日前の話。午前中は曇っていたけれど、午後からは綺麗に晴れて気温も上がってきた、そんな日のことで。お店を出たところで一編目の最初の頁を開いてみると、最初の段落に「九月の第三週のウィーク・デー、よく晴れた日の午後遅く」という一文があるのに気がついた。ああ、と思って空を見上げる。青い空に白い雲、時刻は一六時過ぎ。まさになタイミング。読書はチャンス・ミーティング。 昨日は台風が接近してきていたから一日部屋で過ごそうと決めて、そんな風に出会った短編集から三編目の「雨の柴又慕情」を読んでみることにした。 片岡義男本人も思わせる小説家が待ち合わせで訪れた湖畔のホテル。接近する台風で身動きが取れなくなり、そこでの時間を潰すために待ち合わせの相手であるアメリカ人女性の元ジャーナリスト、偶然再会した薬剤師であり空手のインストラクターでもある小説家の妹、そして男装の大工と女装の普段、名前も言葉(使い)も行き来する彼女の友人、その4人でタイトル通り外は強い風雨のなか『男はつらいよ』の第九作「柴又慕情」をビデオで観ることに…… これも読み始めるのにまさになタイミングの一編。台風は心配だけれど、嬉しくもなる。最近『男はつらいよ』も毎週のように観てるしね。雨の雨の柴又慕情。というのはちょっと嘘で、本当は買った日に読んでいるし、一昨日ももう一回読んでいたからこれは偶然の出会いではなくて、必然の再会。そんな読書。お気に入りの小説は何度でも読みたいし、そこにシチュエーションやタイミングも合わせてみれば、もっと特別なものになる、と思っているから。こういう「演出」も大好きだし、ときには必要じゃないですか。 さて、寅さんの映画を気に入った四人は、コーヒーを飲みながら寅さんやいつもの面々、マドンナ(今回は吉永小百合)のキャラクタや演じる俳優について、ストーリーやプロットにショット、更にはそこから読み取れる日本の社会、日常、そこでの(特に女性の)ままならなさについてまで語り合う。これは片岡義男の寅さん小説、というよりは『男はつらいよ』論。あるいは映画を通して、小説を使って幾つかの立場から考えられた、そこから見えてくる日本の社会に関する批評、でもあるのような気もしないでもない。 特にマドンナと寅さんの妹である「さくら」についてのやりとりがなるほどだった。 「さくらについては、どう思いますか」僕がみんなにきいてみた。 「まだ独身だった頃のさくらに、私はなりたい」 憧れの気持ちをあらわにして、エルが言った。 「彼女は理想型のひとつね」 「とらやに現れたマドンナとは、その瞬間から、昔からの親しい知り合いのようになれる女性」 「寅さんはコスモポリタンの可能性を持つ人とするなら、その妹もコスモポリタンね」 「マドンナといえども、日常を持っているわけでしょう。日常のなかにある女どうしとしての、日常というもののままならなさへの、心からの共感」 なるほど。ここで映画を観る前の「日本語には女のための女言葉というものがある、という事実を知ったときの私は、心から驚きました。だって、女言葉は、自分が女であることを、いつでも誰にでも、まっ先に宣言する役を果たすのですもの」というセリフや装いとともに言葉も行き来する大工のエピソードが効いてくるわけだ。小説の巧みさ。普段使う言葉というのはつまりは日常でもあるし、それが社会に要請されたものならそこにはまさにままならなさがある、ということか。 さくらとマドンナに関しては、毎週土曜日に少しずつめくっている滝口悠生さんの新書『いま、幸せかい?「寅さん」からの言葉』の「 女性の生き方について」という章(が立てられる映画なわけだ)の序文でも同じような言及がされていたことなのだった。 「『男はつらいよ』に登場する女性たちが発する言葉を注意して読んでみると、そこにはむしろ仕事や結婚をめぐって女性が被る不平等や、女性の自立を妨げる因習を訴えるものがとても多く、この映画が常に先進的な女性を登場させ、その姿勢を積極的に示していたことが明らかになる。 その最たる例は、リリーと泉の言葉だろう。そしてまた、彼女たちの言葉に対していつも静かに同意と支持を示してきたさくらの姿も忘れてはいけない。」 なるほどなるほど。『男はつらいよ』という映画は寅さんの前に華やかな女性、マドンナが現れると同時にマドンナ、日常のなかで女性が被る不平等や、女性の自立を妨げる因習というままならなさに悩む女性の前に、寅さんという社会や日常から自由なアウトサイダーであり、広い(少なくとも別の)視野と行動力をもったコスモポリタンな人間が現れる、という話でもあるのか。そこで彼自身は意図をしていないにしても、その言動に触れることによって、彼女たちは日常や社会から少し自由になってそれぞれの自らの決断をするわけだ。 そしてマドンナの前から寅さんは去っていき、また半年後に別の悩みをもった女性の前に現れる。そんなことを考えてみると、この寅さんのキャラクタというのは、渥美清も演じたことのある金田一耕助とも通じるところがあるような気もしてきている。それはまた別の話だけれど。と完全ににわかの状態でわたしの寅さん評を披露し出していますけれど、素晴らしい小説や映画というのは、そうせざるを得ない力があるのです。ですよね。 短編小説に話を戻すと、映画について語り合ったあと、結果的に映画のおきまりのように「またふられちまったか」という兄妹が、寅さんとさくらになりきり「ツイードのジャケットを脱いだ。そして袖に腕をとおさずにジャケットを肩にはおり、腹巻きのつもりでスラックスのなかへ両方の筆を滑りこませ」繰り広げられる寸劇のラストシーン。ここも完璧。『男はつらいよ』のあのグルーヴが文章で小説のグルーヴとして完全に再現されている最高さ。そしてこの会話の舞台はお盆か正月(映画の公開時期)かというメタも踏まえて辿り着く最後のセリフは「諸君、今日は降っても、明日は晴れるよ」。 たしかにこの小説を読み返した翌日の今日は、嘘みたいで夏みたいで三日前みたいな青空だ。あと白い雲。と古本屋での文庫本との出会いから、今窓から空を見上げているところまでで、タイミングもバッチリで最高の読書だった、と思ってみたい。今日はこの文庫をポケットに入れて少し歩こうか。今書いていることの続きと、片岡義男の文体、日本語で書かれた他の小説とも他の言語から翻訳された日本語ともまた違う独特のそれについてでも考えながら。それにしても今日の日差しはちょっと夏過ぎる。




DN/HP@DN_HP2026年9月19日三編目に収録されている「雨の柴又慕情」を読んだ。片岡義男の寅さん小説、あるいは『男はつらいよ』論。 片岡義男本人を思わせる小説家が待ち合わせで訪れた湖畔のホテル、接近する台風で身動きが取れなくなり、時間を潰すために待ち合わせの相手と偶然会った妹とその友人の4人で、タイトル通り外は雨のなか『男はつらいよ 柴又慕情』をビデオで観ることに。全員が気に入り熱心に感想を語り合い、いつしか鋭い分析になり、それは映画から社会にまで至る(というか映画を語るというにはそういうことか)。さらに最後には兄妹が寅さんとさくらになりきり『男はつらいよ』のあの掛け合いのグルーヴまで獲得しているような気までしてくる。これは内容もそうだけれど、タイミング的にも最高だったと言いたい。 この辺特に良かった。 「さくらについては、どう思いますか」僕がみんなにきいてみた。 「まだ独身だった頃のさくらに、私はなりたい」 憧れの気持ちをあらわにして、エルが言った。 「彼女は理想型のひとつね」 「とらやに現れたマドンナとは、その瞬間から、昔からの親しい知り合いのようになれる女性」 「寅さんはコスモポリタンの可能性を持つ人とするなら、その妹もコスモポリタンね」 「マドンナといえども、日常を持っているわけでしょう。日常のなかにある女どうしとしての、日常というもののままならなさへの、心からの共感」 —— マドンナを「外国の人」にしてはどうか、という話から 「……人々が外の世界とどのように接するか、その接しかたを観察すれば、その人たちの本質はたちどころに判明してしまう。これをテーマにすればいい」 「外国をどこまで自分の内側に取りこめるか、ということですか」 「そう。外の世界との接触を拒否したり嫌がっている人たちは、自分たちの国家のなかで眠っている状態だ。国家に利用されていて、そのことに気づいていない状態、と言ってもいい」 「外国を取りこむということは、国家からの自由ですね。どこまで取りこめるかは、どこまで国家から自由であるかということだわ」 「ということがテーマの、男はつらいよ」










