貝殻航路
2件の記録
chika@koitoya2026年3月17日読み終わった半年間どこにいるかわからない夫とそれを受け入れている主人公。 夫はアイヌの母を持ち、その妹は物心がつくまえに母を亡くしたのでアイヌのことを教えてもらえなかったが和人からはアイヌだと言われる。 夫婦だけれども婚姻関係ではない、夫婦だけれどもずっと一緒にはいない。船と船、または港と船のような関係性。 「〈Signalny〉は貝殻島の英語名で、並んで書かれた 〈Остров Сигнальный〉はロシア語、シグナリヌイ島。灯台という信号があるから、こういう名称なんだろうか。カイカライ、日本ではそこに誰かが漢字をあてて貝殻になった。地名には歴史の足跡がある。誰かが誰かの土地を踏みしめ命名し共有されていく。それが占領のひとつの姿だ。」(p36) 名付けるという暴力性。 波が行き来する海に本来は線なんてないのに主人公の父親はロシアの沿岸警備船に拿捕され漁ができなくなってしまった。見えない線によって人が、生活が傷つけられる。 父は解放されてからは港で犬を殺しまわる。 「港にはロシアの犬と呼ばれていた野良犬がうろついていた。航海のお守りとしてロシア船に乗せて連れられてきた犬だった。船が接岸すると港に放され、離岸する時刻になっても戻らなかった犬はそのまま置いていかれた。」(p40) 犬も犬で被害者だ。関係がない。しかし父は弱い存在である犬を殺していく。 そしてその犬の死体を主人公は庭に埋める。 父親は介護施設に入ってからベッドのシーツを引っ張ってぐちゃぐちゃにする。介護人が父が漁網を引いていると思っていると教えてくれる。 誰かの習慣を誰かの制度・価値観が壊していく。 そして主人公は戦後ロシアに占拠され続けている歯舞群島に属している、こちらからは誰もいくことができない島の、もう光を灯さない灯台を見つめる。それは父との楽しかった思い出の象徴でもある。 「あの灯台はわたしにとって一生懸命に手を伸ばしても触れることのできない宝物だった。それを含む北方領土を夕希音はもういらないと言ってのけた。わたしの心の中の灯台に、小さな傷がつき、ちりちりと痛む。けれど痛みに痛みでやり返すことは、父さんがロシアの犬を殺したのと同じだ。わたしはたった一言だけ「わかるよ」と呟いて目を伏せた。その言葉を自分の傷にあてがってみる。わかるよ、この一言には領土の諦めを認める響きがある。でも、同時にわたしはずっと手の届かないものを求め続けなければならないとも思う。」(p99) 痛みの連鎖は止めなければならない。ただ彼女は諦めもしない。 領土や婚姻、家族。 それぞれ人間が定めたものであり名付けて世界をわかりやすくしたものだ。そこには少なからず切り捨てられるなにかがある。 制度が絡まない関係性。名前や制度がない世界。それは理想のようでやはり不安で怖いものだと思う。そう思ってしまうこと、実現不可能だとわかってしまうことが悲しい。 人間は「安心」と「自由」を同時には完全に持てない構造にある。 主人公のように不安も、傷も、矛盾も引き受けたまま関係を続けることができるだろうか。 悲しい感情が残る作品だった。
