私が鳥のときは

2件の記録
- 村崎@mrskntk2024年1月27日読みながら感じていたのは、蒼子がとても公平に物事を見る中学生だということ。バナミさん、塾の友人ヒナちゃん、それから自分。人にはそれぞれ事情があるということをちゃんとわかったうえで、その事情を下品に詮索しない。ただ目の前にいる人のことを自分の目に見えている姿のままとらえる。そのうえで、その人自身が持っている長所や短所を受け取っているので、蒼子はすごくフラットだ。 大人びているわけではない、むしろおそらく蒼子はすごく等身大の中学生。だからバナミさんに対して迷惑とか嫌だって思う気持ちを持つ。保護者として高校の見学に付き添いに来てくれれば感謝もする。そして余命わずかな人間にも自分は優しくできないんだという後悔や自己嫌悪も感じる。すべてに対して正直で、リアルな感情で、小説ということをときたま忘れそうになった。 「私が鳥のときは」、このタイトルをはじめて見たとき、言葉の使い方に違和感があった。というのは、「私が鳥のときは」って、想像したことがない状況だからだ。「私が鳥だったら」でも「私が鳥だったときは」でもない。「私が鳥のときは」。この不思議なタイトルの意味が明かされたときは涙が出そうだった。「if」をそんなふうに考えたことなかった。 英語の勉強中、バナミさんが「もし雨なら私は傘を差します」という文に疑問を持つ。「if」の直訳は「もし」、「もし」は「ありえないけどこうだったらいいなあ」というニュアンスだと考えていたバナミさんに、ヒナちゃんのなにげない解説が「私が鳥のときは」というタイトルにつながっていく。私が鳥になることは、「ありえないけどこうだったらいいなあ」では決してない。分かれ道があったかもしれない過去や事情を、分岐としてとらえ、自分の目で見たことをそのまま受け入れる蒼子だからこそ「私が鳥のときは」という言葉が、ほんとうにそのままの意味で羽ばたいていく。