石橋湛山の65日

石橋湛山の65日
石橋湛山の65日
保阪正康
東洋経済新報社
2021年3月26日
2件の記録
  • 「<昭和二十年八月十五日)を起点にして、日本社会は『オモテの言論』とウラの言論』が入れ替わった。『オモテの言論』とは、端的にいえば国家が公認する言論で、天皇制を補完する論理といってもよかった。非国家、反国家的言論は弾圧、抑圧され、表だって口にすることはできなかった。戦前、戦時下ではこうした『オモテの言論』(つまりは国家公認の言論といっ てよいのだが)のみが前面にでて、国家や天皇を批判する論理は、すべて弾圧されたために地下に潜っていた。そして密かに人びとの間で語られていた。社会主義的認識などをもとにした話も地下に潜り、いわばそれらは『ウラの言論』と評してよかった。ところが戦争の終結以後は、『オモテの言論』が『ウラの言論』となり、『ウラの言論』で用いられていた言葉が、『オモテの言論』にと逆転することになった。オモテとウラが入れ替わったのである。この構図の中に石橋の言論をあてはめてみると、その意味がより鮮明になってくる。 戦前、戦時下の石橋の言論は、まさに『オモテの言論』であるにせよ、それは言論弾圧ギリギリの線で書かれた『ウラの言論』ともいえた。そうした例を挙げるならば、昭和十五年(1 九四〇)二月二十四日号の社論(『所謂軍人の政治干与責は政治家の無能にある』)を挙げることができるだろう。ここで石橋は、軍の総意なるものが政治を動かしている理不尽さを指摘している。その批判を内に秘めつつ、一般の国民は『軍の総意』を理解してなく、省部にあって勢力をもつ軍人と一般の兵士などとの関連を正確につかんでいないとの論を展開するのである。そのうえで次のような結論をもってこの一文を閉じている。『今日の我が政治の悩みは、決して軍人が政治に千与することではない。逆に政治が、軍人の千与を許すが如きものであることだ。微菌が病気ではない。其の繁殖を許す身体が病気だと知るべきだ』 この結語は二重の意味を示している。軍人の政治干与が問題であり、それを許しているこの国の政治が問題なんだというわけだが、むろんここでは軍部が批判されているにせよ、政治もまた情けない、だらしないとそれ以上の言葉で批判されている。石橋は戦前にはオモテの言論とウラの言論を巧みにからませながら、自らの意見を伝えているのである。明治の終わりから言論活動を続けてきた石橋は、このころに直線的に政治批判をくり返していた他の言論人(たとえば外交評論家の清沢冽などのような人物)よりもはるかに強靱な精神を身につけていたことになる。石橋はオモテの言論とウラの言論(戦後は日本の軍事体制のもつ形を代弁する形で地下に潜る形になったのだが)の境目を、戦前・戦中、そして戦後も歩み続けたといえる。 やがてGHQの将校ににらまれていくのは、まさにその姿勢にあった。」 「『私は、どんなに気の立った会見の席に出ても、面と向かって無礼の言を浴びせられたこともなかった。必要なことは身をもって、こちらから飛び込み語り合うことだと考えた。思想は思想をもって戦うより外に道はない。いたずらに権力をもって圧迫することは、決して巧妙な労働対策でも、共産党対策でもない。二・一ゼネストの際の経験は、私に、こう教えた』『私は三十日の午後八時からラジオで全国に向かって放送し、政府の苦衷を訴えた。(中略) 私の放送には、たしかに手ごたえがあった。国民の多数は決して政府の敵ではなかった。官公庁の職員も、その少なくも幹部は、決して共闘の指令に従うものではなかった』石橋にとって、とくに二つのことがこの後の初心ともなったと考えられる。第一は、共産主義とはこれまでも一線を画してきたが、それは誤りではなかったということであり、第二は、胸中を正直に打ち明けて説得すれば、人はのちにどういう判断をするかは別にして必ず受けいれてくれるとの鉄則である。この二点は、政治家になっても石橋の柱になっていたことがわかる。石橋の人生観というべきでもあった。  首相の吉田茂はその後に著した回想録(『回想十年』)に次のように 書いている。 『石橋君は、持前の自信の強さと、積極的な論法とで、石炭問題でも給与問題でも、何にでも身をもって出掛けてゆき、問題を一身に背負ったような恰好になっていたが、私の目から見れば、勿論頼もしいには違いないのだが、正直にいって何かしら八方破れのような感じがしないでもなかった』 この表現の中に官僚畑で育ったわけではないので、優等生的ふるまいに欠けるとのニュアンスがこめられている。『八方破れ』の意味は、官僚らしい計算高さ、あるいは官僚が身につけている処世の智恵、そんなものは見当たらないとの言であった。吉田の目にはよくいえば野人、悪くいうと自らの視界に収まる人物ではないとの判断があったということになるだろう。 二人の体質はまったく異なることが明らかになっている。」 「占領下の日本政治は、もとより独立国家とは異なってすべて占領軍の指示の中にあった。全体に、といっていいのだが、日本人の国民的性格といったいい方になるのだろうが、大体はその命令を受けいれた。だが石橋は、前述のようにGHQの厩がることでも平然と主張するタイプであり、それが日本社会で人気がわいてくる政治家だったのである。」 「怒りはGHQ内部からも石橋のもとに伝わってきたが、しかし石橋はそのような助言や忠告にもまったく臆することはなかった。『なぜ民主主義の国が僕を批判できるんだ』とか『バカなことをいうな。ぼくの戦時下の言論を見てみるがいい。どこが追放に値するというのか』とまったくとりあわなかった。石橋はまさに揺るぎのない言念の土としての誇りをもっていた。 石橋のこのような性格はこの期の政治家の資質としては特筆されるべきものだった。政治評 論家の阿部眞之助が石橋湛山論でいみじくもいいあてているように、『(石橋は)他の戦後閣像にみるように占領軍のカイライに甘んずることができなかった。これは、近頃流行のレジスタンスという如きものではなく、主として性格から来た反抗だった』と見るべきだった。 それだけに辛害の場に置かれたとき、どのような性格が真の気骨ある人物になりうるのか」 「『何ごとも運命だよ』 と石橋が石田に洩らしたその言は単に石橋の思いだけでなく、石橋に代表される『大日本帝国を払拭し、真の民主主義体制を模索する国民』の悔しさでもあった。 昭和三十二年(一九五七)二月二十三日午後二時すぎに、石橋内閣は臨時閣議を開き、総辞職」 「三十七年間、東洋経済新報社を舞台にしての言論人、そして経営者としての活動、政治家になってからは首相以後を含めて二十五年間の議員生活を過ごした。政治家としてわずか五年ほとで首相の座に駆け登ったが、志半ばでその職を離れ、その後は一議員として東西冷戦下での日本の役割をできるだけ『中立』にもっていこうと活動し、日本経済の建て直しに協力を惜しまなかった。政治家である前に軍国主義下にあっても権力を恐れず、時流におもねらず、自らの倍じる道に邁進した六十有余年は、『首相在任六十五日』の時間に凝縮している。 六十五日間に、石橋の姿は首相として国会にはなかった。しかし石橋の言説は、国会という空間の『主役』であり続けている。私たちが『歴史』に託する期待は、その『主役』への頼を確認することで常に生き続けると私は考えている。」 「このような例を引きながら、石橋は日本にあっては、暴動や革命騒動が広まらない理由はどこにあるのだろうか、との疑問に至るのである。昭和二十七年(一九五二)四月二十八日に講和条約が発効して独立を回復したときに、石橋は日本は左右両翼の勢力を排して、まさに穏健な自主独立のバランスのとれた国家を目標にすべきだと訴えたともいえる。石橋のこうした立場を確認すると、独立回復後の政治は吉田政治のような向米一辺倒は、むしろ国益に反するといった思いが如実に伝わってくる。石橋は追放解除後の政治家のいく道を、新しいリベラリズムを包含した保守主義といった方向に定めたとも言えるのではないだろうか。 この道は当時の日本人の意識のもっとも平均的な枠内にあり、何よりも近代日本の軌道修正の意味を含んでいたのであった。」 「日本には日本独自の民主主義体制が育つ可能性があり、国際社会でも独自の道を模索する機会はあった。石橋の敷こうとしたそうした路線とは、まったく逆の方向で、現実の歴史は動いたのである。三年後の岸内閣による『六〇年安保改定』時のこの国の混乱の姿は石橋路線の否定でもあった。くり返すことになるが、日本社会が目ざすまっとうなリベラリズムは、その後政治の軌道には乗らなかったことを私たちは忘れるべきではない。 しかしそれがこの国の『天命』であってはならない。」
  • ハム
    ハム
    @unia
    2025年3月17日
    吉田茂の存在ばかりが目立って石橋湛山という稀有な感覚を持つ首相がいたことを知らなかったので勉強になった。 リベラルがまったく根付きにくい当時の日本においてその理念を貫く姿勢は確かに歴史のIFを考えさせる。 E・H・カーの言う国際政治におけるリベラルを考えると今も昔も日本のリベラルな立ち位置は難しいのかなぁとも思うけど、今の時代に政権を担ってもおもしろいのではと思ってしまう。
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