映画,わが自由の幻想

映画,わが自由の幻想
映画,わが自由の幻想
ルイス・ブニュエル
矢島翠
早川書房
1984年7月1日
2件の記録
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年3月29日
    わたしは雨の音が好きだ。 記憶のなかにこの世で最も美しい音として 残っている。器具の助けを借りて聞いても、 もはや同じ音ではない。 雨は偉大な民族をつくる。 (p.366) わたしが七つの大罪のなかで、ひとつだけ、 かけ値なしに大きらいなのは、羨望の罪である。 …… 羨望は、他人の幸福がわたしたちを不幸な気に させる時、必然的にその人間の死を願う思いに 導く、唯一の罪である。 …… 羨望はすぐれてスペイン的な罪である。 (p.384) (『好きなもの、きらいなもの』) 「不毛の土地(スペイン北部)に生まれた」ブニュエルは、そこにないものに憧れる。 スペイン内戦、広がる不毛と羨望ーー 垂直方向の恵み枯れ、水平方向に蔓延する羨望、 故郷を離れ、メキシコへ。 "原初の満足が失われたので、その原状回復を  求めるのが欲求である。だから、「欲求は  本質的に郷愁であり、ホームシックである」  (『全体性と無限』レヴィナス)と言われるのだ。  これに対して「欲望」は帰る先を知らない  異郷感、満たされた状態を思い出せない  不満足感のことである。"  (『他者と死者』 内田樹 p.70) 1977年、遺作のタイトルは 『欲望のあいまいな対象』。 "場所はそこを占める対象に論理的に先立つ。  ……  崇高な対象とは「〈物〉のレベルまで高められた 対象である」。 この点を最もよく例証しているのは、ブニュエルの一連の映画だろう。それらはーブニュエル自身の言葉を用いればーー「ある単純な欲望が、説明できないが、どうしても実現できない」という同じモチーフを中心にして作られている。 …… 最後に「欲望のあいまいな対象』では、女が、一連の仕掛けによって、昔の恋人との再会の決定的瞬間を繰り返し先送りする。" (『イデオロギーの崇高な対象』シジェク   p.359-360) 「雨は偉大な民族をつくる。」 雨という音のカーテンの向こう側に、 ブニュエルの欲望するものがあった。 それが「メキシコ」であり、「女」であり、 「偉大な民族」であり、 そうではなかった、または、それらではなかった ということ。 それらは「ある」ものではなく 「つくられてある」ものであったということ。 ブニュエルは、映画という「場所」により、 生涯を賭けてそれらを表現したということ ーー「羨望の罪」つまり情報というノイズから 逃れるために、雨を必要としたということ。
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年3月28日
    『アンダルシアの犬』 シナリオは、二人(ブニュエルとダリ)が意見一致で採択した、簡単きわまる規則によって、一週間足らずで書きあげられた。合理的、心理的ないし文化的な説明を成り立たせるような発想もイメージも、いっさい、うけいれぬこと。非合理的なるものに向けて、あらゆる戸口を開け放つこと。われわれに衝撃を与えるイメージのみをうけいれ、その理由について、穿鑿しないことーーである。 (『シュルレアリスム 一九二九〜一九三三』p.177) 社会が「合理的、心理的ないし文化的」に息詰まりを感じていたからこそ、反動として「非合理的なるもの」が魅力的に見える時代。合理性よりも非合理性こそに全能性を感じる時代。 「われわれに衝撃を与えるイメージのみをうけいれ、その理由について、穿鑿しないこと」 作成のプロセスが直感的、野性的、暴力的。 だからこそ、あらゆる「説明」と「物語」を拒む、「物自体」的な、暴力的な作品が出来上がる。 『アンダルシアの犬』、その映画こそ見たことはないが、フランシス・ベーコンの絵画を前にしたときのような、眼球だけが映像に釘付けにされ、身動きがとれなくなるような作品なのだろうと思う。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved