おばあさんになるなんて

2件の記録
いぬい@inuiru2026年5月9日読み終わった「くまの子ウーフ」の作者。翻訳家の小島希里と作家の志澤小夜子が聞き手となって聞き書きを行った本らしい。聞き書きというスタイルもあってか、素朴で飾り気のない言葉。私は結構、こちらに語りかけられるタイプの本がにがてで、冒頭から「読みつづけられるかな?」と心配になったんだけど、あまりに率直な人柄が垣間見えて最後まで面白く読んだ。 「わたし、結核だったし、世間が狭くてひとにもまれてないでしょ。しかも、こうありたい、他人にこうみせたい、というのがすごく強いんですよ。だって、自分ってひどいもんですもの。だから、そのままみせたら、たいへん。知的で、理性的っていうひとが好きなのよねえ。あこがれなのよね。本当はちっともそういう人間じゃあないくせに、そうみせかけようとするの。努力もせずに、困ったもんです。」←メチャクチャ分かる 語りの合間に収められた「桜」という掌編がメチャクチャいい。 風邪で寝込んでいるときに、近所の若者がやってきて幼い「わたし」を抱きあげてくれる、桜の花に顔が届いて、桜に頬擦りされている。と思うと、若者はいつの間にか大きな熊に変わっている──という夢を見たあと、その「若者」の記憶がよみがえる。かつて、金策のために夫が出て行き、娘と暮らしながら病床についていたころのこと。海で溺れかけた娘を救ってくれた大学生のキヨタカは、それを縁に家へ立ち寄るようになった。北海道の、熊のいる村で育ったという彼を、娘は兄のように、「わたし」は弟のように慕う。 男女の恋愛……と言うか男女にかぎらず生々しい恋愛感情ってちょっと引いて見てしまうところがあるんだけど、この話はほんとうによくて(まあ、実体験ベースのものを表に出そうとしたらそうなるのかも知れないけど)「わたし」と「キヨタカ」のささやかなこころのふれあいが、ほんとうにささやかに描かれている。その、ふたりのふれあいはほんとうにささやかなのに、別離のあとで「わたし」が「キヨタカ」を思うとき、それは静かな苛烈さを帯びている。 「キヨタカとよぶことで一日一日が耐えられた。」 「棲みついたその名は息すれば息となり、思いもかけずほろりとこぼれ散るかと思えばまた、小鳥のように宙へ舞いたつこともあった。」 「それは時折、われ知らずもらすため息か、感嘆符のようでもあり、意味のないオマジナイめいたとなえことばのようでもあって、わたしはそれがかつての若者のなまえであることすら忘れた。」 たまたま出会った若者、「男」である実体をうしなって、名前だけが唇に棲みついたという。そして冒頭の夢を思い返すと胸がギュッとなる。歳上だった「わたし」が幼い娘になり、「キヨタカ」は熊になって「わたし」を抱きあげる。庭には満開の桜。 夫とのエピソードもいい。博識で、頭がよくて、器用で働き者。なのにお金を稼ぐことだけが壊滅的にへたくそ。金策のために家を出て行って帰って来ず、地方で愛人をつくっているような男。ドラマみたいなダメ男と、作者は結局最後まで連れ添った。 「わたしも腹が立って。ぶんなぐろうとしたのね。そしたら、逆にむこうがわたしをぶんなぐった。くやしくて、しょうがないじゃないですか。 それなのにそのまま、いっしょに東京まで出てきちゃった。何にも持たずによ。どうして? 遅くなっちゃって、もう、牧師さんに合わせる顔がない。それで、帰れない。しかたない、行っちゃった。そういうところがあるのよ、わたし。小さなことに耐えられないから、大きな失敗をしちゃう。」←メチャクチャ分かる 母と夫、夫の姉を養っていたこともあった。どう支えていくか考えるのに必死で、彼らをゆっくり受け止める余裕はなかった。そのうち、夫、母、義姉の順に亡くなった。 「夫が逝った直後は、もうわたしには黒い服しか似合わないのよなんて嘆き悲しんでいたわけよ。そりゃあ、いくら本人が医者嫌いでも、もっと早く医者に見せるべきだったなあ、と思えてきてねえ。自分が死なせたようで辛かったし、もう少しで彼も仕事が実りそうな気がしていたところだったでしょ。口惜しかった。まあ、思いようでは好きなことをしてきた人生のようではあるけれど、やっぱり順調には来なかったひとですからね。無念だったと思うのよ。 ところが三人とも亡くなってしばらくしたら、肩から重荷がバーッととれちゃって、悪いけれど、本当にホッとした感じ。もう看取るべきひとがなくなり、責任を持たなければならないひとがいないんですもの。いつ病気になってもいつ死んでもいい。そりゃあ、気楽なもんです。まあ、年の順で逝ってくれた方がよかったけれど、こればかりはしかたないですし。 一人って、本当にいいですねえ。のびのび、暮らせる。自分が生きていく分だけだったら、必要なお金も見当が付くし。好きな時に起きて、書いて。人が亡くなったことに、こんなに感謝するなんて。ちょっとまずいかしら。黒しか似合わなかったはずなのに、今じゃ堂々と赤着てる。」 この「堂々と赤着てる。」という締めがメチャクチャいい。 「歳をとって時間ができたら、リルケを読み返したいとずっと思ってて、リルケ全集買ったのだけど、読んでない。老年というのはもっとゆったりしているものだと思っていたのに、全然ゆったりなんかしていない。(中略) 『老い』というものは『なりゆき』でしょう。 わたしが望んで老いたわけじゃあない、生きものの自然として『なりゆく』んだったらそれも楽しまなくちゃあね。『ふーん、お尻の肉はこんなふうに落ちて痩せてくるんだ』『疲れの抜け方が、こんなに違ってくるんだ』『いっぱい明るさがないと、目、見えにくいんだ』──なんてゆっくりわかってね。年をとることだって、初々しい初体験なんだ。だからだらしないけど、あまり気張らず、楽な生活にするの、楽にね。」 とは言いつつ、講演を頼まれると断れず、上手く喋れなくて落ちこみ、歳をとってもそういうのはなくならない、というのが作者らしい。 「それにわたしは『おばあさんの知恵袋』みたいなひとではなくて、わからないおばあさんだし。今でも、『わからない、わからない』って私の中の小さな女の子がいい続けているのだもの、『わからない』ところに腰をすえておしまいまで行くしかないでしょう。」 「クジラの天窓」という掌編、と言うかエッセイかな? これもいい。 「クジラたちのまるい目が見あげる天窓。 数千万年の昔からクジラたちの見あげた空……。 わたしはわたしの天窓を仰ぐ。 地球というこの星に太古からすむクジラと、ほんのたまゆらの刻を共に呼吸している自分、巨きく美しい生きものと小さな人間のわたしと、その双方の体内にいのちを刻む心臓の音が聞こえるようだ。潮鳴のような血流音がひびくようだ。 ……わたしは目を閉じその音を聞く。」
いぬい@inuiru2026年5月9日ふと思い出した作者(と言うか語り手)は樺太育ちなんだけど、祖父は秋田の小坂鉱山で働いてたらしい。樺太では内川(ないかわ)というところに住んでいて、そこでの生活が書かれたのが「流れのほとり」とのこと。 そういや昔、地元の地名に「内(ない)」とつくのが多いな、と気になって調べたとき、「ナイ」はアイヌ語の「沢、川」だと知って腑に落ちた。つまり「内川」は川、川、なわけだ。ちなみに地元にも「内川(うちかわ)」という土地があるが、そこには「内川川」という川もある。この「内」も、もとはナイだったのではないかと思うが。川川川。