近代とは何か: その隠されたアジェンダ (叢書・ウニベルシタス 731)

近代とは何か: その隠されたアジェンダ (叢書・ウニベルシタス 731)
スティーヴン・トゥールミン
法政大学出版局
2001年12月1日
2件の記録
だむ@p0se1-d0n2026年5月18日読み終わった今思えば信じられないような事態だが その昔「ニューアカ(デミズム)」 ブームというのがあって日本人では浅田 彰、中沢新一といった人が、またフラン スの哲学書が学生を中心によく読まれた。 そのとき吹き荒れた(消費された)のが 「ポストモダン」という言葉である。 難解なそれらの書物のページをめくりな がら「近代?」とひとりごちていた。 あー、そんな自分に読ませてあげたかっ た、と今回古本市で奇跡的に出会った この本を前にしばし感慨に耽った。 「近代」とはいつから始まりそれは何で あったのか。 著者はヨーロッパの歴史を紐解きながら その出自を明らかにしようとする。 通常いわば哲学界隈で「近代」といえば よく知られているようにデカルト、ニュ ートンに代表される「合理主義」の発露 としての時代区分を指すだろう。 これに対し著者が強調するのがそれに 先立つルネサンス・人文主義の時代で ある。モンテーニュやアンリ4世を取り 上げることにより明らかにされるその 時代思潮を簡単にまとめると 時間的、空間的に限られた範囲内での 適応的な実践を追求しようとする思考 態度である。そしてその背景にあるのが 一般的な真理(が成立すること)及び 宗教的教条主義への「懐疑」であり、 それらと表裏の関係にある人間本性に 対する「寛容さ」である。 これだけだと何のこっちゃ、という 感じだけれどその反対側に、 限られた範囲ではなく超時間的・空間的 に成立するもの、ひとことでいえば 普遍的なものであって精密な原理・原則 に基づくもの、すなわちデカルト、ニュ ートンが定立しようとした「科学」を 置いてみればひとつの見取り図が得られ るだろう。 歴史の流れを追いながらこの前者から後 者への連続性と断続性を踏まえて「近代」 を定立しようとする著者トゥールミンの 手さばきは鮮やかでまず味わって損は ない。 と、ここまでが本書の紹介。(つづく)

だむ@p0se1-d0n2026年5月18日(つづき)ところで読んでる途中から私 の頭の中に去来したのはドナルド・トラ ンプのことだった。 長期にわたる宗教戦争後の荒廃した ヨーロッパにおいて新しいプレイヤー としての国家が徐々に姿をあらわし始め る。このとき切実に希求されたのが 何よりも社会的・政治的な「安定」で あった。そのときにヒントとなったのが 先に述べたデカルトやニュートンの 知的探求である。彼らの探求の対象たる 「世界」とはそもそも全知全能の神の 計画に基づき構築され普遍的な法則に 貫かれ「最高位のもの」と「より低位 のもの」たちからなる自然そのものだっ た(念のため言い添えればデカルトも ニュートンも神の存在をこれっぽっちも 疑っていなかった)。 このシステムをもっともよく表している とされたのが太陽系である。太陽という 単一で至高の存在を中心に固定した軌道 を従属的な惑星が周回するというイメー ジ。これこそ普遍的・法則的なものの これ以上ない実例として新しい国家形成 のモデルとするにはまさに理想的であっ た。「自然に対する神の関係」は「国家 に対する国王の関係」に等しい。そして 階層性と安定性は矛盾するものではなか った。神の創造にならって国家を形成す ることは望ましいことであり国家に正当 性を付与するものだったのである。 さてトランプであるが、彼がこの歴史 ある「惑星モデル」を意識的であろうが なかろうが引き継いでいることは明らか だろう。最近のあたかも自らをイエス・ キリストになぞらえたかのような画像 を思い起こす人も多いのではないか。 大事なことは彼のような人物が「モダ ニズム」の系譜に完全に連なるという こと、もっといえばその正当な嫡出で さえあるということだ。トゥールミンが モンテーニュを通じて描いた知的謙虚さ、 寛容といった徳の重要性が本書が出版 されでから20年以上たった現在におい ても色あせることがない所以である。 最後に本書204頁にあるライプニッツの 言葉を引用したい。 「神が奇跡を行うのは、自然の不足を 補うためでなく、恩寵の不足を補うため である。そうではないと考える者は誰 でも、神の叡知と力について、ひどく 拙劣な観念をもっているのに違いな い。」 この文中の「神」を「私」に置き換える ことに何のためらいももたないもの。 そのものがいま世界をゆり動かしている。