サハラ幻想行

サハラ幻想行
サハラ幻想行
森本哲郎
五月書房
2002年2月1日
3件の記録
  • ni
    ni
    @nininice
    2026年6月2日
    著者のサハラの旅が終わるのと同時に、わたしもこの本を読み終えてしまった。こんなにも終えたくないと思う本は本当に久しぶりだ。 あとがきに、「わが心のアルバムに、どこよりも鮮明に焼きついて消えないのは、砂漠、なかでも世界最大の砂の海サハラである。だから自著の一冊というなら、私はためらいなく本書をあげるだろう」と書いてあり、付録対談でも、「最後の場所を選ぶなら?」という質問に「そりゃ、やはりサハラですよ」と答えている。著者の人生の中でも一等輝く経験と思い出を、このような本にして後世の読者へと残してくれたことに感謝。 ふと、『指輪物語』のビルボ・バギンズを思い出した。彼も人生の中で一度、ドワーフたちと長い旅に出る。目的を果たした後、故郷へ帰り『ゆきてかえりし物語』を書くのだけど、老年になり再び、同じ道をゆく最後の旅へ出るのだ。旅先での思い出が、旅から帰ったあとも消えず、身と心が離れてしまうような憧憬となる。 このサハラの旅と、ビルボの旅に共通して感じるのは、強烈な、「恋しさ」だ。『サハラ幻想行』はたった六日間の出来事らしいのだが、著者が帰国した後、この本を書く一年半の期間、また書き終えたその後もどれほど彼が再びサハラを夢見たかが文章の端々から伝わってくるのだ。恋しさが、伝わってくる。 この旅の動機は、サハラ砂漠にあるタッシリの岩に描かれた壁画を見ることだ。五千年も昔に描かれた画。本はそこに至るまでの出来事と、著者の哲学的な思索を織り交ぜて書かれている。どこを読んでも文章は美しく、知的で、ロマンと異国情緒にあふれ、紀行文とはいえ本当にこのような出来事があったのかと信じがたいくらい夢と現実との境が曖昧で魅力的だ。 中でもわたしが一番心動かされたのは、タッシリへと向かう道中、灼熱のサハラで、死ぬような思いで岩を登り、やっと辿り着いた休憩地で熱い水を飲み煙草をふかしようやく意識をもどした著者が、まわりの渇ききった砂漠の光景をながめながら突然、突然、全く場違いな新古今和歌集の和歌を思い浮かべたのだ。わたしにも大変馴染みのある、後鳥羽院と宮内卿の春歌。 みよし野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春の曙 後鳥羽院 あふさかやこずゑの花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら 宮内卿 なんという、文学的で自由な対比だろう。『新古今和歌集春歌下』に見えるこれらの歌は、他にも例えば、 花さそふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟のあと見ゆるまで 宮内卿 さくら花夢かうつつか白雲のたえてつねなきみねの春かぜ 家隆 などの、夢のように美しい散りゆく桜の歌と一緒に並んでいる。白熱の砂漠、見渡す限り植物とよべるものは一つもなく、燃えるような砂地と岩と太陽と青い空。そのような乾いた世界と、薄紅の桜が満開となり、風が吹きその花びらを散らし、それは嵐すらも白く霞ませ、川の水一面に広がる。この春の景色。 現代日本の、少し前には満開の桜を眺め、満開の薔薇を眺め、梅雨を前に紫陽花を眺めているわたしの生活だって、この八百年前の王朝時代から少なからず続いていると感じられる。しかし著者は、砂漠の世界から思い出すこのような日本のイマージュが、非現実的なものとして見えると言う。 一年を通して刻々と季節により風景の変化する日本と、砂漠と空の風景が滅多に変化しないサハラ。わたし自身は諸行無常の日本風土がどうしようもなく心身に馴染んでいると自覚している。きっとそうではない著者が、真逆の世界に恋焦がれてやまない気持ちが、この本を読んでいてとても印象的だった。
  • Izzy
    @Izzy_reads
    2026年6月2日
  • ni
    ni
    @nininice
    2026年5月30日
    今のところ、全てのページで立ち止まり、情景に想いを巡らせ、著者の思念に追いつくために考え、その詩のように美しい一場面一場面に胸がいっぱいになっている。サハラ砂漠、哲学、宗教、人間、空、砂、椰子、蠍、驢馬、水、歴史、過去、太陽、風…… シルヴァンだけが仰向けにねて、星をみつめていた。 「大地にもメタンプシコーズがあるんですよ」と、彼は突然、ひとりごとのようにつぶやいた。 「メタンプシコーズだって?」と、私はききかえした。 「循環……ともちがうな……くり返しですよ。子どもが青年になり、壮年になり、老年になり、ふたたび子どもになり、というくり返しです。その原動力になるのは、水と風なんですね」 メタンプシコーズ…輪廻 シルヴァン…金髪のフランス人学生 シルヴァンの話によると、浸食作用の最終の目標は、土地をけずりとって、それを海面と同じにすることだという。こうして水と風が、不断に山をくずし、谷を埋め、凹みをならしてゆく。サハラはその輪廻を九百万平方キロにわたって実証しているのだ。 そうした違いを切り捨てて、どんな人間も、ヒトであることに変わりはないと考えたとき、つまりヒトという要素だけをぬき出すことに成功したとき、私たちは「人間」という概念を獲得したのである。 こうしたやりかたで、さまざまな要素が抽出されると、それらはつぎつぎに命名され、名づけられることによって観念になっていった。そして、ひとつの観念ができあがると、その観念との対比によって、べつの観念が生まれ、さらにそれらの観念の関係が調整されて……というぐあいに思考は発達し、言語が意思の表示とともに思考の道具になっていったにちがいない。思考の道具としての言語を生み出したのは、以上のような捨象、抽象、分割の作業だった。 生物はそれぞれの器のなかに、名状しがたい何物かを湛えながら生きている。ロバの器のなかには、何が入っているのであろうか。何千年という長い年月の間に沈殿した悲しみであろうか。あきらめであろうか。絶望であろうか。いや、ロバはそのような情念を持ちうるのだろうか。
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