戦後批評家論 (1969年)

3件の記録
Ryu@dododokado2026年8月17日読んでる「蔵原のいっているのは単純なことだ。つまり、政治を第一義と考えるなら文学を政治に従属させるのは当然のことだ、もしそれがいやなら、つまらぬ同伴者になるのはやめて政治から手を引け、といっているにすぎない。文学を政治に従属させることは、絶対に誤りであろうか? もし政治への従属が文学を荒廃させるというなら、それと同じ意味で、過度の自由もまた文学を荒廃させることを、私たちはすでに見てしまっているのである。"主人持ち"の文学である明治の政治小説や中野重治の初期作品は、私には現在でも読むに耐える。しかし”主人持ち”を拒否した志賀直哉の作品を、少なくとも私の感受性はもはや受けつけない。また、中途半端な同伴者になることを拒否して、思想的営為を貫徴した存在として、私たちはすでに吉本隆明をもっている。そしていつの世でも、適当に良心の満足をはかっているのは、中途半端な同伴者である。」13 「はっきりいっておくが、私は権力による抑圧を是認しているのではない。ただ、事が文学に関するかぎり、たとえばファシズム体制さえ、永井荷風が日記を書き続けることを妨げることはできなかったし、また近代以前の芸術家は、王侯の傭人であったにもかかわらず、秀れた作品を書きえたという事実に、私は目をつぶることはできない。古来、何らかの制約をもたなかったような時代があったであろうか。そういう制約にもかかわらず、秀れた作品が生まれえたという事実を、私たちは忘れてはならない。人は芸術家の孤独の怖ろしさというものを、もっと知るべきである。「政治の優位性」論も、それを批判することも、すでに私には恣意的なものと見える。」14 「しかし平野謙の独創は、こういう形をとった旧左翼批判が、同時に私小説批判としての側面をも兼備していた点にあったと思われる。半封建的風土のなかで、自己主張を敢行しようとするとき、それが左翼運動にせよ、文学制作という形をとるにせよ、何らかの意味で日常生活の犠牲を要求せずにはいない。この犠牲の分量に拘泥するとき、文学制作じたいにたいする懐疑が生まれ出る。生活者の価値観と芸術家の価値観との背反は、平野の思性を骨がらみに規定している。やがて『芸術と実生活』(昭和33年刊)に結実する文学理論は、すでに平野の出発の時点において確立されていたといってよい。 しかし平野謙のパラドックスは、旧左翼文学または私小説を弾効しながらも、なおかつ終局的にはそれを肯定し、かつそれに固執している点にあったと思われる。「島崎藤村」(「新生』論)の未尾で、"必然悪”に耐えた上での"宿命の浄化"を果たした者として、島崎藤村を讃美していることは、おそらく平野における、あるいは「近代文学」派における、白樺派の遺産継承の分量を暗示している。」15 「『暗い絵」も、『「戦争と平和」論』も、つまるところ屈折度の高い『暗夜行路』の再生ではないか? それなら、現在の立場から見て、本多秋五や野間宏の思惟を再考するとき、そこに私が一種の違和感をおぼえるのはなぜであろうか。『暗い絵』の主人公を、野間宏が「日本の心の尖端」と規定したとき、それは、野間にとって自己と日本人との連帯性が信じられていたことを示している。平野謙や本多秋五が自己の転向体験の告白から戦後の出発をとげていることも、彼らにとって自己の歩みが日本人の歩みの典型として自覚されていたことを暗示している。しかし現在の私たちにとって、はたしてそういう連帯が信じられるであろうか。少なくとも私自身にとっては、そういう連帯が信じられなくなった地点から、文学の問題がはじまったのである。」17
Ryu@dododokado2026年8月17日読んでる「ここで戦後の批評史にもどるならば、政治的な関心を失わなかった「近代文学」派にたいして、政治的無関心派に近い旧「批評」グループの存在が、なおかつ思想史的な意味を担っているのは、戦後社会の変貌過程において、東京人の感受性が批評原理の上に新しい何物かを附加したという点である。たとえば吉田健一は、「近代文学」派から見れば一介のディレッタントにすぎないかもしれない。しかし「作品」を「作家」に還元することを頑強に拒否する吉田の批評原理の背後には、”他人がどう生きようと知ったことではない"という、都市生活者の明断な現実感覚が秘められている。そしてその一点において、「吉田健一の批評原理は、"個人の恣意性"の原理の上に成立した戦後という時代に、「近代文学」派の人びと以上に触れているという逆説も成立するのだ。吉田健一にとって、純文学と大来文学との差異は存在しない。その差を認めないということは、「吉田にとって「作品」はその制作過程よりも鑑賞過程においてのみ意味をもっているということだ。「人はしばしば現実への違和感から文学に関わるに至る。そのばあい、社会的な不適応を自己主張に転化するという陥穽から逃れることは、意外にむずかしい。それは生活意識の問題としては、孤独を売物にすることにたいして、離恥を感じるか否かという、いわば生活者の倫理感覚に帰着する。そしてこのことは、歴史的・文化的なコンテキストにおいていえば、自然主義から戦後派に至る文学理念を、感覚的にどう受けとめるかという感受性の問題にかかわっている。感受性においてエリート的であり、しかも意識的に大衆に奉仕しようとした人びとにたいして、吉田健一、山本健吉らが、感受性において読者大衆の立場に徹していたことは、戦後批評史の大きなアイロニーを形づくっている。純粋に"読者”の観点に立つとき、"古典”と"現代文学”との間に本質的な差異はありえない。現代文学もまた、古典の累積の上に位置づけられるほかはないからである。」24-5 「しかし問題は、西欧の二〇世紀思想が一九世紀の個性崇拝の思想に懐疑を表明したように、山本健吉が明治以降の広義の近代主義にたいして、自らの文学鑑賞という場において、懐疑を表明せざるをえない地点に立たされてしまったということにある。山本健吉らによる”共同体論”の台頭が、竹内好らによる“国民文学論”の台頭と、ほぼ時を同じくしている点は、たんなる偶然の一致として片づけることはできない。そこに講和条約締結前後の国民意識の台頭を見ることもできよう。しかしいっそう根底的には、昭和二〇年代の主流をなした近代個人主義と市民民主主義とが、曲りなりにも戦後の日本のうちに実現し、同時にその限界点が次第に人びとによって自覚されはじめてきたという事態が、そこにはある。昭和三〇年代の批評文学は、好むと好まざるとにかかわらず、その残された問題に直面せずにはいられなくなるのである。」26 「折口信夫の影響下に出発をとげた山本健吉は、たしかに近代的な"個”の意識の限界を意識して、伝統的な様式の再評価に到達している。しかし山本にとって、共同体の規制力の問題は、いわば民族的な美意識の源泉としての意味をもち、その拘束力の構造じたいを究明する試みは生まれない。これにたいして吉本にとっては、たとえば「夕焼小焼」のメロディに動かされること自体が、ひとつの現実的な体験であると同時に、日本的感性の呪縛力の問題とならざるをえない。「日本のナショナリズム」(昭和39年)のなかで、吉本は童謡・唱歌・軍歌のメロディに着目し、それらを共有しているという点で、知識人と大衆とが同質の存在であることを指摘している。つまり知識人とは、知識を多量にもった大衆なのであり、そのことを自覚しえないがゆえに、彼らは自称/前衛”の意識に安住している、また、そういう意識(吉本はそれを「普遍ロマンチシズム」と呼んでいる)を破却しえた状態、つまり日本的な呪縛の構造を意識化し、脱皮しえた状態を、吉本は「自立」と呼ぶのである。」30-1 「政治における「機略」の再評価は、当然、左翼文学における「節操固守”の倫理の否定とならざるをえない。節操が自己の理想への忠誠を意味するにしても、理想への忠誠を貫くことと、その理想の有効性とは、本質的に別次元の問題なのである。もとよりこういう思性は、無節操主義と紙一重の地点に成立している。戦時下の花田の位置が、吉本にとって弾効すべき対象になっているのは、吉本の戦争体験からすれば当然であるが、しかし花田にとっては、過去の左翼文学も戦後派も戦中派も、それがナショナルな心情に支えられているというかぎりにおいて、すでに敵以外のものではないのである。むろん花田にしても、そういう心情からまったく自由であろうはずはない。というより、日本的な心情を自覚しているがゆえに、それを敵として戦う意欲が生まれ出るといってもよい。日本的なものをパロディとしてとらえる花田の発想は、ナショナリズムの心情的基盤の崩壊した戦後世代の生活 意識と、ここで微妙な接点をもつに至るのである。現在、安部公房の文学が広な読者層をもっているのも、そういう日本人の感性の変化と無関係なものではない。 花田・吉本論争の一争点であった"芸術の大衆化”の問題も、本質的には戦後の現実に根をもつものであった。すでに私小説における芸術精進の思想がじられないかぎり、「告白」を文学の価値の中心に置くことはできない。純文学の概念が、個性崇拝のロマンチシズムに根をもっているかぎり、もはやそういう幻影に頼ることはできない。「芸術」と「娯楽」とを同一のカテゴリーでとらえる花田の芸術観には、古典的な純文学の理念への徹底した不備が秘められている。この観点は、少なくとも作品の鑑賞という次元では、純文学と大来文学との差を認めない吉田健一らの芸術観と、ある共通項をもっているのである。 芸術大衆化論をめぐる吉本の主張は「芸術大染化論の否定」に見られるが、吉本の攻撃の矢が、大来化をもくろむ前衛の意識構造に向けられている点は特徴的である。これが吉本のいう「インターナショナル=リアリズムの裏面」に附着している「普遍ロマンチシズムの虚偽」に向けられていることはいうまでもない。ここから、大来の生活意識と芸術意識とが必ずしも一致せず、芸術意識に関するかぎり大来化そのものには意味がない、という主張が導き出される。こういう前提を、花田のほうが知らなかったはずはない。ただこのばあい、吉本にとっても花田にとっても、「芸術家」の概念がすでに古典的私小説のそれとはまったく異なる地点に据えられている点に、私たちは注意しておけばよいであろう。」34-5 「服部が「作品」の「生産者」「消費者」という用語を用いているのは注目すべき現象であり、これは私小説の理念の生きていた時代には、到底起こりえないことであった。また服部が「生産者」の本質的属性として「想像力」を挙げている点は、反リアリズムというよりは、むしろ反自伝的発想というべきものである。この「想像力」をどう位置づけるかによって、メタフィジック批評はそのヴァラエティをもつに至るのである。」37 「ところで戦後における民主主義の確立は、人びとの心のうちに、"個”の恣意性の意識を、しだいに滲透させていった。この傾向はマスコミュニケーションの発達と結びついて、文学作品を否応なしに"商品”として意識させずにはおかなかったのである。読者が恣意性によって作品を購買するかぎり、作品の価値は必然的に読者の評価という基準によって規定される。私はいま、作家の読者への迎合というような現象について述べているのではない。さきに服部達について指摘したように、文学作品が生産過程・消費過程という二つの側面から見られているということは、作品の価値を作家の内面に一元化することが、もはやできなくなっているということである。かつて文壇がサロンとしての閉鎖的な性格をもっていたとき、作家の私生活はサロンの内部では既知のことに属し、またその前提が肩じられていたかぎりにおいて、私小説の美学は可能であった。しかし文壇の性格が一変し、作品が "物”として外部社会にさらされたとき、いったい作品の価値を保証するものは何なのであろうか。 知識人の前衛的な位相じたいが、すでに懐疑の対象になっていたことは、たとえば福田坂存の「平和論の進め方についての疑問」(昭和29年)によっても明らかである。こういう領域を見極めうるのは、天下国家を論じる建設的な論客たちではない。作品をたんに作品として享受する批評原理は、すでに吉田健一、山本健吉、中村真一郎らによって昭和二〇年代に形作られていた。彼らが私小説の求道的な文学理念も、批評における作品の伝記的還元も排していた点は、ここにおいて思想史的な意味を担うに至るのである。伝記的批評の奉者、あるいは批評における告白的表現の主張者が、それを肩じていたという点でロマンチシズムに足をすくわれ、逆に純粋な鑑賞者に徹しようとする者が、求道的批評の陥罪を免れることによって、かえって歴史の地殻の振動を正当に受けとめえたというパラドックスが成立する。佐伯彰一、篠田一士らが、一見してディレッタントの相貌を呈しながらも、なおかつ彼らの登場が歴史的な意味をもちうるのは、そこにおいてである。」39-40