健康な悟性と病的な悟性

3件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年10月4日読んでるとはいえ、君の<私>が救いがたいのは、それがただ<君の><私>でしかあろうとしないからにすぎない。君が縛りつけられているように見える君の人格という牢獄の狭い範囲を超えて、君の<私>を高めよ。君の<私>にみずからの使命である支配への一歩を踏みださせよ。そうすれば、君だけではなく、世界が、その神々や偶像も含めた全世界が、君の臣下になるだろう。君が意志するとき、それでもなお君になにが太刀打ちできるだろうか。君がみずからの意志を君のちっぽけな我意から解放しさえすれば、君の意志は万物の意志となる。 (第七章 治療ーー第二週) 所有格はそれ自体「牢獄」であるということ。 自我が自己を支配するとき、<私の>私、私はちっぽけな自我の檻の中に閉じ込められる。 牢獄から解き放たれるためには、<私の>をはじめとするすべての所有格を「私」から取り除かなければならない。 "「誇りをもちなさい」と言いたい。でも誇りって、どこかその辺に落ちていないかしら、と拾って身につけるわけにいかないでしょう。 「誇り」というのは、自分の体にくっついている劣等感をはぎとって、あれも、これも、と剥ぎ落としていったとき、最後に残るもの。それが誇りなんです。" (『自分の眼で見て、考える』 安野光雅ーー『薪カバーになった絵』) 完全にははぎ取ることはできない自我、劣等感もまた<私の>に付随する「自分の体にくっついている」もののひとつ。
ジクロロ@jirowcrew2026年9月30日読んでるしかし、世界観という言葉のうちにすでに、まったく別の、はるかに射程の長い要求が潜んでいる。つまりこの言葉は、事物や人間や出来事の流れが不断に流れていくたんなる広々とした河床ではもはやなく、驚いた観察者が落ち着いてそれを観察するためにあの流れからすくい取った、多少とも水を満たした皿になっているのである。流れではなく皿なのである。 (p.58) 「流れ」からはみ出したとき「皿」が必要となる。 皿に救われた水とは、その点における微分。 「二度と同じ川には入れない」(ヘラクレイトス)、にもかかわらず「皿」は準備される。 「皿」の大きさは気分に左右される。 「病的な悟性」とは、自分の手を「皿」として、そこに世界を汲み尽くせないと知りつつも、その器におさめようと試みるような、他者からの救いを必要とする悟性ではないか。 「掬月」という言葉が思い浮かぶ。 せめてその水面が、鏡のように平滑で澄んだものであってほしい。 「はるかに射程の長い要求」、この部分が何を訴えかけているのかは、今のところよくわからない。

