
ジクロロ
@jirowcrew
2026年9月30日

健康な悟性と病的な悟性
フランツ・ロ-ゼンツヴァイク,
村岡晋一
読んでる
しかし、世界観という言葉のうちにすでに、まったく別の、はるかに射程の長い要求が潜んでいる。つまりこの言葉は、事物や人間や出来事の流れが不断に流れていくたんなる広々とした河床ではもはやなく、驚いた観察者が落ち着いてそれを観察するためにあの流れからすくい取った、多少とも水を満たした皿になっているのである。流れではなく皿なのである。
(p.58)
「流れ」からはみ出したとき「皿」が必要となる。
皿に救われた水とは、その点における微分。
「二度と同じ川には入れない」(ヘラクレイトス)、にもかかわらず「皿」は準備される。
「皿」の大きさは気分に左右される。
「病的な悟性」とは、自分の手を「皿」として、そこに世界を汲み尽くせないと知りつつも、その器におさめようと試みるような、他者からの救いを必要とする悟性ではないか。
「掬月」という言葉が思い浮かぶ。
せめてその水面が、鏡のように平滑で澄んだものであってほしい。
「はるかに射程の長い要求」、この部分が何を訴えかけているのかは、今のところよくわからない。


