いのちの政治学 リーダーは「コトバ」をもっている

5件の記録
- noko@nokonoko2025年8月16日読み終わった借りてきた心に残る一節トポスとは人が「自分には役割がある」と感じられる居場所のことですが、その重要性という問題が、その後の大平の精神の非常に深いところに、ずっと根付いていたのではないかと。 これ(「内村鑑三信仰著作全集12」)がたぶん、大平の「楕円」という考え方の出所なんだろうと思われます。そして、ここで大事なのは、内村が楕円というのは宇宙的である、と述べていることです。楕円には、時間的にはもちろん、空間的にも次元的にも引っ張り合っている、ある種の緊張状態がある。その緊張状態を失った円形の時空においては、人は過去も未来も見失って、限定された意味での「今」に引っ張られるのみになる。そうではない楕円の時空を持つことが大事なんだというわけです。 (明恵上人の)あるべきようにあれ、別の言い方をするならば「中庸」ということになるのでしょうか。その感覚が現代の政治からは失われている。中庸は発達段階の途中に過ぎず、よくないものだと思われているということが、現代の一つの強い傾向としてあると思うんです。 それと反対に、中庸こそが目指すべき姿だという信念が、大平にはあったと思います。 これは私なりの解釈ですが、山岸(俊男)さんは、安心とは「想定外の行為を消した状態にあること」、信頼は「想定外のことが起きても、それを許容できる関係性をもつこと」ととらえているように思います。つまり、「安心」を実現しようとすると、「想定外の行為」が起きないように、監視カメラを増やしたりと、社会はどんどん統制型になっていく。「安心社会」といわれるのはこれです。一方「信頼社会」は、それとは違って、突拍子もない「想定外の行為」をする人がいても、「まぁ、それほどおかしなことにはならないだろう」という信頼関係があって、その元で社会を運営していこうという状態なんですね。 石牟礼さんとご一緒させていただく中では、言葉のちからについても多く考えさせられたのですが、言葉の弊害と言う問題にも直面しました。現代人は、文字をよく読めるようになるのと引き換えに、いかにたくさんのものが見えなくなったかを感じることがあったのです。言葉をよく読めるようになった一方で、コトバを感じられなくなったのではないかと思います。
- 犬川@nekoiruyo2025年5月14日読み終わった映画「教皇選挙」を観に行く前に、教皇フランシスコの章を再読。 引用 「かつて絶対王政の時代には、王の権力に正統性を与えるのは『神』の存在でした。神が王に『王権』という主権を付託しているんだという、いわゆる王権神授説がとられていたんですね。 (略)(国民主権国家の)、神の存在を切り離し、理性だけを根拠とした主権のあり方は『何か大きな存在から与えられた権限を、自分たちは代理人として行使している』という感覚を私たちからも奪うことにもなってしまいました」 このあたり自分の中では重要ポイント。伝統の名の下に個人を消費するのは許容できない(個人として尊重されるべき)けど、古くからの祭りとか、神棚に手を合わせるとか、そういうのがなくなってもよいとかくだらないとか、そこまでは思えないんだよなあ。 コンクラーベ(教皇選挙)が「根比べ(めっちゃ時間かかる)」っていう駄洒落はもうカビが生えてるんやろか。