改訂新版 共同幻想論(1)
5件の記録
jirowcrew@jirowcrew2025年11月7日かつて読んだ「わたしたちは人間の〈死〉とはなにかを心的に規定してみせることができる。人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に〈侵蝕〉された状態を〈死〉と呼ぶというふうに。〈死〉の様式が文化空間のひとつの様式となってあらわされるのはそのためである。たとえば、未開社会では人間の生理的な〈死〉は、自己幻想(または対幻想)が共同幻想にまったくとってかわられるような〈侵蝕〉を意味するために、個体の〈死〉は共同幻想の〈彼岸〉へ投げ出される疎外を意味するにすぎない。近代社会では、〈死〉は大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、共同幻想の〈侵蝕〉は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりという概念が流通するようになる。」 子どもの時代は共同幻想のなかにあり、青年時代はそれに逆らう形で「敗北」をそのうちに孕んだ個人幻想に走る。 人は自然に歳をとる。 そして自然に、自然と、闘わなくなる。 体力とともに衰える気力。 重力に泥(なず)む、自然によるマウント。 老人ホームで、みんなで切り絵をしたり、折り紙を折ったりする自分の姿が想像できない。 そんな現代の悲しき共同幻想。 「死ねば死にきり」のほうがマシなのか、 いまから信仰の道を探るか。 いずれにせよ、今のところ、どのビジョンも 「消極」が原点となってしまう。 そんなふうに、極が消えているのは、 いつも真ん中から弾かれないように生きている証拠か。



